「俳句ジャーナリズム」と読者の変化
ツイッターで「現場」の様子をレポートする。既に珍しい行為ではなりつつありますが、米コネチカット州で、殺人事件を裁く法廷がツイッター経由で実況されるという出来事があったそうです:
■ A Grisly Murder Trial, in 140-Character Bits (New York Times)
コネチカット州のCheshireという町で殺人事件があり、それを裁く法廷が開かれた際のこと。テレビカメラによる中継は行われなったのですが、その代わりコネチカットの地元紙やテレビ局のレポーターなど合わせて6名が、法廷からツイッターによる実況ツイートを行ったのだそうです(ちなみに裁判官は、裁判の妨げにならない限りという条件で法廷内でテキストメッセージの送信を行うことを許可)。ある人はこの状況を評して「俳句ジャーナリズム」と呼んだのだとか。
例えばコラムニストのHelen Ubiñas氏は、判決が出る直前に、法廷に保安官たちが入ってきたときの様子を次のように報じています:
「いま、部屋の空気が張り詰めました」
と、表現力のある記者であれば、むしろテレビカメラによる中継よりも臨場感を出すことができるかもしれません。もちろん伝える人間のバイアスがかかった情報が出てくる可能性はありますが、事件に関心のある人々にとっては、現場からリアルタイムで情報を伝えてくれる「俳句ジャーナリズム」の価値は無視できないでしょう。考えてみれば日本でも、注目の裁判が行われている時には、ワイドショーで細切れの情報が都度流されるということがありますよね。
さて、正直な話、法廷で行われていることの一字一句、一挙手一投足をリアルタイムで伝えることにどれほどの意味があるのでしょうか。もちろん事件の関係者で、法廷には入れなかったという方にとっては大いに意味のある行為だと思いますが、一般の人々にとっては、裁判の終了後にダイジェストを伝えてもらうという形でも良いはずです。にもかかわらず、既存の大手メディアまでもが「俳句ジャーナリズム」に参加したということは、それだけユーザーの側がリアルタイムで、断片的な情報を欲するようになってきたことを意味しているのかもしれません。
考えてみれば、ツイッター上で「実況」という行為が行われることは珍しくなくなりました。それに伴い、誰かが書き込んでくれる140字の断片を組み合わせて、その中に価値を見出すという行為に人々は慣れつつあります。さらに現在ではトゥギャッターなどといったツールがあり、フロー情報からストック情報を生み出すことが楽に行えるようになりました。そうしたユーザー側の変化、ある意味で「受け入れ準備」が整いつつあるからこそ、大手メディアもリアルタイム・ジャーナリズムに乗り出すようになっているのではないでしょうか。
もちろん誰もが俳句ジャーナリズムを望んでいるわけではないですし、ある分野では一次情報だけくれればいいけど、別の分野では解釈も加えて欲しいという場合があるでしょう。従って「俳句ジャーナリズム」がジャーナリズムのスタンダードになるとは思えませんが、テクノロジーと人間の側の変化により、ジャーナリズムの側にも変化が求められているのが現在の状況ではないかと思います。
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