2011年の自分を表す漢字は「糺(ただす・あざなう)」
右手の小指が折れました。
正確には脱臼で済みました。第一印象は小指がアウトサイドにコンニチハと頭を下げていたので折れたと思いました。
心臓が止まりそうになりつつ、高校鉄拳伝タフのごとくすぐさま左手で折れた場所を掴んでコリコリっと戻しました。なんであんなことができたのか自分でもわかりません。
さて「糺」ですが京都の人ならよくご存知のとおり「ただす」と読みます。
偽りをただす、という意味で今年もまた情報システムに関連するよろしくない事象をただすお手伝いをしてまいりたいと思います。
そしてこの字は「あざなう」とも読まれます。禍福は糺える縄の如し、糾うを使うのが一般的な漢字ですが、世の中には道理があり、それが人間界に垣間見えてくるときに良いこととも悪いこととも受け取られる、人間が感じているのは世の中の表層の現象のひとつでしかないのかもしれない、私はそのように解釈しています。
マネジメントの考え方から悪いことに当たろうとすれば、管理不能な事象はバックアップで対応し、管理可能な事象は頻度やインパクトを下げるようコントロールを工夫するのが基本と思います。最近、後者に当たる「自己責任」とか「体調管理」とかを強く求めすぎる風潮があるように思います。例えとして適切ではないかもしれませんが、バックアップの効きづらい政治家や皇族の方でも体調不良で公務をお休みになるというニュースが流れることがあります。しっかりとコントロールされているはずのそういった方々でさえ体調を崩されるのですから、一般の人、はたまた感染症の渦巻く小中学校や幼稚園保育園に子どもを通わせつつ、過密な電車通勤をする人にとっては「体調管理」なんて運試しでしかないように思います。にも関わらずバックアップを考えず重要な業務を一人任せにして「高熱でも休めない」という場面が多すぎやしないでしょうか。(かといってマスクや手洗いを無駄といっているわけではありません。努力で解決できない事象を努力不足と片付ける勢力があるように思うことへの疑問符です。)
自分は小指を痛めましたが、仕事にはほとんど影響のない状況です。上のような気付きを得ることができてまさしく「禍福は糺える縄の如し」を実感しました。
最後に「あざなう」は縄をなうことでもあります。1本1本は細い紐が太い縄になるように、オルタナブロガーはじめいろんな方と出会い、話し、影響しあい、縄のように丈夫な人と人とのつながりができていけばいいなと思います。
痣なう。
今年もよろしくお願いします。