座禅における警策は体罰だったら、この話はどうなっていたのだろう?
座禅中に姿勢が乱れてバシっと肩を叩くシーンはドラマなどでも良く登場しますが、これは「警策」というんだそうで、朝日新聞にこの「警策」は体罰にはあたらないという記事が掲載されてご覧になった方も多いかと思います。
座禅を授業に採り入れる学校から「生徒や保護者に体罰との違いを説明できるようにしたい」と相談があったのがキッカケらしいですが、体罰という定義が訳分からんことになっている気がしてきました。
ちなみにwikipediaの体罰、「日本における体罰の扱い」というところには以下の記載があります。
法務省は、懲戒権の限界について定め、それを越すいわゆる体罰は触法であると定め、「体罰」について以下のように通達している。
- 学校教育法第11条にいう「体罰」とは、懲戒の内容が身体的性質のものである場合を意味する
- 身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る・蹴るの類)は体罰に該当する
- 被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(端坐・直立等・特定の姿勢を長時間にわたって保持させる)は体罰に該当する
すなわち、「体罰」はその成立要件として、
- 懲戒の対象となる行為に対して、
- その懲戒内容が、被罰者の身体に対する侵害を内容とするか、被罰者に肉体的苦痛を与えるようなものであり、
- その程度があくまでも「罰」の範疇であること。
ここに記載されるように、「体罰」の成立要件として、懲戒の対象となる行為に対してとありますから、
そもそも問合せしている学校は学びの一環として座禅を取り入れている訳で、懲戒としての体罰は次元が違うという説明をしても通じないということなんでしょうね。
自分としては、座禅における「警策」は体罰ですという解釈があったほう学校内で議論するにも逆に良かったのではないかと思いました。
義務教育か否か、インフォーマル教育かノンフォーマル教育なのかで、体罰以外にも、そのほか独自ルールがどの程度認められるべきかは議論の余地がありますが、学校教育法で縛られる世界と、そこに縛られない世界もあって、そことの付き合いをどうするかを考えるのもひとつの勉強になるはずですし。
イギリスでは親の体罰すら禁止する改正法律案が既に可決されているそうですが、昨晩も書いたように、宗教の戒律的なものを重視する社会と日本を同一に扱う部分で困難な面もあり、日本では従うべきものを定めていくことの難しさがあると思います。
体罰が無い社会、家庭が実現するのは理想かと思いますが、
- それまで体罰を施すことで何が得られていたのか?
- その教育的成果は、体罰無しで本人は学ぶ事は出来たのか?
この辺も考えていかないと、基本的な躾けの面で、無原則(アナトミー)、支離滅裂に陥ってしまうのはまずいような気がします。