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白州次郎が英和辞典に「象徴」と書いてある、と言ったのが現在の憲法に「象徴」という字が使ってある所以らしい!?

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憲法記念日の今日は風邪で体調を崩していたこともあり、久々に完全休養モードで過ごしました。

恥ずかしながら48才のこの歳であっても憲法改正問題を真剣に考えることなく過ごしてしまったというのが正直なところとはじめに告白しておきます。

大正7年と昭和元年生まれで従軍経験がある自分の両親は、戦争放棄や自衛権のことなど矛盾があったとしても国の命令で戦場に駆り出されるような事が2度と起きないことのほうが大事だというスタンスでした。

「日本人は自身の手で憲法を作ったことがない」ということを阿部首相は訴えており、ここに同調する人たちも多いようです。

米国から押し付けられたという認識は一緒でも、そこの解釈にはこれまたいろいろあるようで、まず最初は元外務省の方の考えを紹介してみます。

日本国憲法は、米国が作成した草案を日本語に翻訳し、少し修正を加えたものです。 

ホイットニーは、もし日本政府がこのGHQが作成した憲法草案を受け入れなければ、天皇は戦犯として処刑されるかもしれないし、吉田外相をはじめとする現政府のメンバーも権力の座に残ることはできないと猛烈におどしているのです。 

孫崎 亨「戦後史の正体」

そして、次はこの草案受け渡しの現場に立ち会ったこの人が何を書いているかというと、

こんな憲法を平和憲法だなんていってありがたがっている御連中は、おそらくこの憲法の出生由来を知らないのではないだろうか。

中略

当時休暇で日本にいた大学在学中の惣領息子が草案の一章か一項を書いたんだと親馬鹿流に公言していたということをGHQの高官の一人が、なげかわしげに私に話したのを覚えている。 

白州次郎「プリンシプルのない日本」

そして、こんなくだりもあり、

まあ正直にいうと私に関する限り止むを得ず外務省の翻訳官(そんな官職があったかどうかは今だにしらないが)二人を連れてGHQに乗り込み、GHQ内に一室を与えられてこの英文和訳との取組みが始まったのだ。

中略

こうやって出来上がったものが「日本人が自主的につくった」新憲法の草案である。この翻訳遂行中のことはあまり記憶にないが、一つだけある。原文に天皇は国家のシンボルであると書いてあった。翻訳官の一人に(この方は少々上方弁であったが)「シンボルって何というのや」と聞かれたから、私が彼のそばにあった英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」という字が使ってある所以である。

白州次郎「プリンシプルのない日本」

これ本当?と思うような事が出てきます。

戦勝国による占領政策がアメリカの占領政策といえるような状態に変化し、米ソの関係が急速に変化したことから日本の取り扱いに変化が生じ、結果として多くの矛盾を抱えながら自衛隊の問題など無理矢理な理屈をこねながら日本がここまで来たのはご承知の通りかと。

このネタを書いてみて思ったのですが、年功序列、終身雇用のような労働者としては理想に近い形を戦後日本は作りあげてきたけれど、世界基準で考えると厳しい現実があり、そこに日本の労働者の多くも基準を合わせざるえない時期にさしかかって来ている感じがしています。

日本は紛争問題などでカネだけ出して人はださないという批判を浴びたことがありますが、96条改正が実現したら、どこまで踏み込んでいくのか、そこから得られることもあれば、当然ながら失うこともあるはずです。

「ショー・ザ・フラッグ」という話を思い出す方も多いかもしれませんが、安部首相もどちらかというと、こういう問題においても国際社会の中で同盟国と同じ土俵に進もうとしているタイプのように感じます。

解雇ルール見直し、TPP、憲法改正、2013年は日本が戦後復興期から歩んで来た道から大きな路線変更を検討しはじめた年として歴史には記録されるのかもしれません。

自分の親が言っていたように、戦争がないのが一番ということに賛成ですが、じゃあ世の中がすべてでそういう理屈が通じるか…というとここには厳しい現実が見えて来てきます。

プリンシプルのない日本と白州次郎は言いましたが、山本七平は「空気」の研究の中で、都合が良ければ憲法を出し、都合が悪ければ自然法をだしていくこと、これがつまり無原則(アナトミー)であり、この支離滅裂がすなわち戦後日本だと行っています。

グローバル社会のルールに合わせるというような話が先日の柳井会長の話から書く機会が増えていますが、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のような宗教を規範として生活している人たちからすると、宗教的な戒律と無縁の大半の日本人がなぜ自律的に生活が可能なのかも分からないと言います。

「日本人が自身の手で憲法を作る」ことは非常に大切な事だと思いますが、改憲したそれを
グローバル社会に対してちゃんと分かる(通じる)ようにやっていけるのかというと、空気に流される傾向のある日本なだけに、ちょっと不安も感じてしまいます。

自分の事を棚に上げてこんな事を書くのはお恥ずかしい限りですが、冒頭申し上げたように自分のこれまでの不勉強を反省する意味も込めて、白州次郎の「プリンシプルのない日本」の一節を紹介して教は終わりたいと思います。

新憲法は占領米軍によって強制的に子使いを通過して成立したものであることは誰でも知っているはずだ。

今や新憲法はどうのこうのと話は毎日聞くが、新憲法の精神というか、それを貫いているプリンシプルは何かということを、考えてみた人は何人いるだとうか。

占領軍からのお土産品のデモクラシーも同じである。我々が現在声たからかに唱えている新憲法もデモクラシーも、単なる、かりものの域を脱しているとは思わない。我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。

新憲法なりデモクラシーがほんとに心の底から自分のものになった時において、はじめて「戦後」は終わったと自己満足してもよかろう。

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