自分にとって、使い捨ては悪ではなく、クリエイティブとして突き詰めれば当然行き着く考え方でしかない
文藝春秋の竹中・三木谷対談の「日本の労働市場はアンフェア」という話についていろいろ批判が巻き起こっている様子。
解雇規制緩和について「人間はモノじゃない」などの主張は良く目にしますが、その使い捨てはいかんという事を言っている大企業の正社員に、末端の下請け業者、フリーランスがどんな扱いを受けてきているかということを、自分のこれまでの経験などを踏まえ思い返してみると、何か釈然としないものが浮かんできます。
いま数人のスタッフを抱えて、映像、音楽、デザインの制作会社を運営している立場としては、普通に時間給で計算し残業代を払っていると、制作能力が低い人、クライアントの注文に応えることができない失敗作を作り続けてしまう人のほうが、短時間で結果を出す人よりも収入が増えてしまう矛盾が生じてしまい、この観点でホワイトカラーエグゼンプションのような制度の法制化はこういう業界にとっては必要とされているのになと思います。
このところ当ブログで取り上げている昭和40年代の経営者などの著書には、その当時増えて来たホワイトカラーの知的生産性をどう計測するのかということについて各人の考え方が書かれているものが多く、50年前からこの辺の課題は変わっていないのだな…と痛感する訳です。
テイラーの科学的管理法をはじめとする計測手法が当てはまる分野と、ちょっとした思いつき(アイデア)が大きな成果を生み出す事もあるご時世ですから
短時間に済むから簡単、だから対価も安くて良い
この図式が成り立たないことも多くあると考えます。
わたしが5秒で思いついたアイデアがベースになって数百万、数千万の売上をもたらすかもしれないし、数時間で作成したデザインが億単位の売上に貢献するユーザインターフェースとして採用されることもあり、それを時間だけで対価が決められたら我々のような職種の人間は、それこそ死ぬまで走り続けることを要求される仕事になってしまいます。
このほか、日本においては仕事の発注範囲が曖昧だったり、先方の都合でスケジュールが遅延してこちらの人権費負担が増加しても手当されないケース、見積りで発注金額が確定しているだけに、残業、休日稼働もお構いなしの言い放題の案件などなど、厳しい条件を受け入れながらも踏ん張って仕事を続けている、中小・零細・フリーランスは沢山います。
クライアントからの支払い金額は決まっているのに、時間効率を意識しない社員が多くの給与を手にする構図は経営者からだけでなく、有能なスタッフから見ても納得がいかない形ではないかと私は思います。
パソコンひとつで世界を相手に仕事ができる時代に、工場で大量生産をしていた時代をベースとした法制度で知的生産性が重要とされる労働者を同じで扱うのにはやはり無理があると思います。
こういった部分の生産制、効率性を労働者の評価として適切に反映しながら経営できないと会社の存続に影響するのは経営者でなくとも分かることだと思いますが、ただそれがすぐ解雇規制の緩和に直結して良いかどうかは議論の余地があると思います。
ミュージシャンとしてバックバンドでの仕事をしていた自分としては、アーティストが行うツアーはアルバムが発売されて行うケースが多く、その音楽性は毎回違います。
そこで求められる音楽性の違いはバックバンドのメンバー選定にも当然影響しますから、基本その音楽を最高に表現できる人間で構成しようとするとバンドメンバーも毎回違うものになります。
これはビジネスにおけるタスクフォース的な考え方に近いと思うのですが、つまり最高の結果を求めようとすると、バンドメンバーも使い捨てなんです(苦笑)
だから自分にとって(クビを言い渡されることがショックな事であるのは事実ですが)使い捨ては悪ではなく、クリエイティブとして突き詰めれば当然行き着く考え方でしかないのです。
自分が仕事に飽きないために実力維持・向上を当然の義務だと思っている人種もいる訳ですが、こういうタイプは一つところに落ち着きたがらない傾向があるような気がして、これは何とも皮肉なものですね。