そろそろ機械に負ける前提で物事考えおかないとまずいだろうと
先日「機械との競争」を読んでのエントリを書いたばかりですが、「第2回将棋電王戦」の報道でちょっと気になったことがあるので改めてこの方面の話題を書いてみたいと思います。
人間味という言葉には
人間としての豊かな情緒。また、人間らしい思いやりや、やさしさ。人情味。
こういう意味があるそうで、やはり機械との歴然とした違いを感じずには居られませんが、
ただし世の中、科学の進歩とともに電算機が登場した時代からすると予想を超えつつある領域にまで機械が進出しており、そのような先端的な事例として「機械との競争」の中では、
- ライオンブリッジの翻訳サービス
- グーグルの自動運転車
- IBMのスーパーコンピュータ「ワトソン」
などを紹介しています。
「ワトソン」に納められている情報量やパターンマッチングを行う処理スピードと完璧ぶりは恐るべきレベルに到達していると著者も書いていて、グーグルの自動運転車がこういうレベル形なっているのはまさに驚くべきことだと思います。
こういったデジタル技術の進歩はブルーカラーの領域を浸食するだけでなく、ホワイトカラーの領域にもどんどん入り込んでくるであろうことは、前述のビデオでも明らかですが、アメリカのディスカバリーと呼ばれる証拠開示手続きにより公判前に開示される証拠のレビュー作業(従来は弁護士や見習いがやっていた)をデジタル技術に移行することで従来の500人分の仕事をこなせるようになるとのことです。
このほか、従来であれば多くの雇用創出源として考えられてきた小売業においてもより多くの商品をより少ない人手で売ろうとする試みが拡がっているとしています。
さて、最初に紹介した「第2回将棋電王戦」についての報道では読売は「棋士が面目保つ、将棋ソフトとの第1局に快勝 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)」
プロ側が苦戦するとの予想もあったが、棋士が面目を保った格好となった
こういう表現をしていており、殆どのメディアは機械が進化はしているがやはり人間のほうが上だろうという視点から書かれている記事が多いように見受けられました。
その考え方が間違っているとは思いませんが、そろそろ機械が人間を追い越してしまった先の事も考えないと、それから騒いでも遅すぎるかもしれません。
大量生産の時代にだんだんとコンピューターが入り込んでいく時代として昭和30年代の後半からのビジネス書などを読むと、いろいろな経営者の人たちの思いが垣間見られて非常に参考になるのですが、
本田宗一郎氏が昭和38年に書いた「俺の考え」の中にこんな一節があります
体力のオリンピックはマス・プロじゃないからいいと思う。ところがわれわれの職場の技能オリンピックはコンベアラインに乗っていて、しかも、それが生活に直結しているということからいっても、技能のある人もない人も飯を食うカネは一緒だから、そこへ勤めた以上は同じように賃金をとらしてやりたい。(強調著者)
職人の仕事を細分化し、機械化と併せ単純化を行いそれが売上に繋がり多くの人の所得が増加してくれた古き良き時代のことが書かれており、昭和40年代に書かれた盛田昭夫氏の「学歴無用論」にも、日本の低賃金をもっとアメリカに近づけようという経営者の考えがあった時代を垣間見ることができます。
この時代から技術の進化は更に進んで、工業用ロボットが活躍する時代にとり、更に「機械との競争」が唱えるような時代が訪れています。
一度雇ってもらったら退職するまで安心という仕組みを維持できる組織がどれだけあるか分かりませんが、少なくとも独立自営してしまっている自分は、ここから数年先に更なるテクノロジの進化、まさかそれを機械がやってくれるとは…というような分野までIT化が進んでも飯の種を探していく必要在るわけです。
機械が人間を打ち負かしてしまうのは確かに聞いていて気持ちの良い話とはいえませんが、自分がジョンヘンリーみたいな競争に陥っているとしたら、一刻も早くパラダイムシフトしていかないと本当にまずい事になると思う訳です。
では何がこれから先、人間に求められる仕事になるのでしょうか?
人工知能反乱を起こすような時代にはなってほしくありませんけど、1992年にクリントン大統領が全米から最高レベルの頭脳を集めて経済の将来について議論させた際に、誰一人としてインターネットのことに言及しなかったとの話もあるので、このアイデア探しは人類永遠のテーマのひとつに加えられるでしょう。
ドラッカーが昭和41年に書いた「経営者の条件」のこの一節を紹介して今日は終わりたいと思います。
ちょうど計算尺が、高校生から数学者をいきなりつくり出すものではないのと同様に、コンピューターもまた、もちろん一般の事務員を意志決定者に変えるものではない。しかしコンピューターの出現は、一般事務員と意志決定者としての潜在的能力をもった人間とを、早くから区別することをわれわれに強制するだろう。
中略
その真の理由はコンピューターが計算を人間から取りあげることによって、組織のあらゆる階層の人びとが経営者として効果的な決定を下すことを学ぶ必要が増大したからである。