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【自分の仕事をつくる】を読んで自分の仕事を考える

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オルタナブログの「Special オルタナトーク」コーナーで「人はなぜ、働くのか」というお題が出たことに関連して、ブロガーがそれぞれの思いを書いています。

「なぜ働くか」、大事な問いですね。

この問いに答える前に、「自分の仕事は何か」について考えたことはあるでしょうか。例えば、「○○会社に勤めていて△△部に所属して□□を担当している」というのは「自分の仕事」なのでしょうか。

書籍<自分の仕事をつくる>の著者である西村氏は、大手企業の会社員を辞めて、フリーになりました。現在は、「つくる」「教える」「書く」の3つの分野で仕事をしながら、「働き方研究家」と称して活動しています。

この本は、著者がデザイン関係の雑誌の連載でいろいろなデザイナーにインタビューした内容を元に、書籍にまとめ直したものです。書籍になったのが2003年、収録されている最初のインタビューはさらに古く1995年です。

書店に並ぶビジネス書の多くは、数年で賞味期限切れになってしまい、後から読み返すと古くさく見えてしまいます。「90年代の古い話が今さら役に立つのか?」と思われるかもしれません。私はこの本は今でも充分に新鮮な普遍の内容を持っていると思います。

以下、私が注目した部分をいくつか抜粋してご紹介します。

優れた技術者は、技術そのものでなく、その先にかならず人間あるいは世界の有り様を見据えている。

技術の話をしている時にも、必ず単なる技術に終わらない視点が顔をのぞかせる。音楽家でも、医者でも、プログラマーでも、経営者でも同じだ。

デザインに限らず、経済のための経済、医療のための医療、消費のための消費など、目的と手段のバランスを失わない唯一の手段は、私たち一人一人が、自分の仕事の目的はそもそもなんだったのかを、日々自問することにある。

課題をクリアしてゆく唯一の方法は、何度も失敗を重ねることでしかない。他に方法はありません。デザインのスキルの大半は、その仕事の進め方の中にあると僕は思う。プレゼンテーションが上手いだけではだめです。

学生達と話していると、「好きなことをやって食べていけるんですか?」「必要とされるんですか?」という具合に、社会的価値をめぐる約束をあらかじめ取り付けたいような、そんな不安がにじみ出た質問を受けることがある。が、ハッキリ言って、あらかじめ意味や価値を約束されている仕事など、どこにもない。

建築家になればいいわけでも、医者になればいいわけでもない。肩書きは同じでも、意味のある仕事をしている人もいれば、まるで意味の感じられない仕事をしている人もいる。「これをやれば大丈夫!」というお墨付きを求める心性は、年齢差に関係なく分布しているようで、これらに出会うと本当に途方に暮れる。

働き方を訪ねてまわっているうちに、その過程で出会った働き手たちが、例外なくある一点で共通していることに気づいた。

彼らはどんな仕事でも、必ず「自分の仕事」にしていた。仕事とその人の関係性が、世の中の多くのワーカー、特にサラリーマンのそれと異なるのだ。

どんな請負の仕事でも、それを自分の仕事として行い、決して他人事にすることがない。企業の中で、まるで自分事ではないような口ぶりでグチを漏らしながら働いている人々(むろん例外も多い)の姿を見てきた当時の自分にとって、彼らの在り方はとても新鮮だった。

働くっていう言葉を、いつも洗い直していることが大事だと思う。スーツを着るとか、何時から何時までオフィスに通うとか、それが働くっていうことじゃない。イデーでも、年収がいくらといった延長上でスタッフが働くのは崩したい。オープンスペースで社長室がないことや、僕が電車で通勤していること、いつもその辺をうろうろしていてだ誰でも社長なんて呼ばないこと(黒崎さんと呼ぶ)。こうしたこと一つ一つが、僕らのような仕事なら当たり前だと思うんです。

でも小さい会社が大きくなる時は、つい従来の企業をお手本にしてしまうことが多い。部門数を増やしてみたり、外部から経理や人事のプロを採用していくうちに、いつの間にか自分たちが嫌っていた会社組織が出来上がってしまう。それは嫌だからどんな方法論があるんだろうって考えるわけです。昼も夜も、四六時中考えてます。

ビートルズでも、ストーンズでもドアーズでも、主に歌っているのは「あればやだ、これはやだ」ってことじゃないですか(笑)。何になりたいからなるっていうより、あれは嫌だからこっちだなっていうくり返しの結果、何かこう追いつめられるようにして、自然に現在に至っている感じ。現在の仕事はドロップアウトの延長上にあるんです。

小学校の先生をしたり、会社勤めをしたこともありますけど、働いているうちにどこかで矛盾が出てくることがあるんです。僕が売っているものを飲み続けたら、カラダを悪くするだろうなあとか(笑)。

ところがそのパンは、自分でつくっていて気持ちがいいし、人にもすごく喜んでもらえる。素材だってカラダにいいものしか入っていない。とにかく全体的に矛盾が感じられなかったんです。

自然や波の音、朝目を覚ます森の小鳥たち、あるいは春に咲く花、そうした自然物に、人が癒やされる思いを抱きやすいのは、美しいからだけではない。それらには「嘘」やごまかしが一切含まれていないのだ。ペットの存在も同様である。

思いっきり単純化すると、「いい仕事」とは嘘のない仕事を指すのかもしれない。

私たちはいろんな”自分の仕事”を、他人や企業にゆだねてきた。食事や洗濯などの家事をレストランやクリーニング屋さんに、健康を病院に、旅を旅行代理店に。そんな中、一人一人の生きる力や自信のようなものが、じわじわ弱まっている気がする。全体性を欠いた自分。

そして自らの仕事を外に託して人生を空洞化させている私と、そこから切り出されたどこかの誰かのための仕事をこなしている私は、同一人物だ。蛇が自分の尻尾をくわえているようなこの堂々めぐりは一体何なのだろう。

そもそも模型なんて生活必需品ではない。僕らのような仕事がなくなったところで、誰も困りはしないでしょう。だからこそ、つくる側が楽しんでいなかった嘘ですよね。最初から遊びの世界なんだから、馬鹿みたいに思いっきりこだわった仕事をした方がいいと思うんです。

僕の出発点はガレージキットです。ガレージキットっていうのは、”自分が欲しいものをつくる”という思想だと思うんですよ。

ビル・ゲイツも、アップルのスティーブ・ジョブスも、自分のコンピュータが欲しかったわけですよね。僕らの仕事も根は同じで、おのれの赴くままにです。つくりたい奴がつくったものは、ちゃんとわかるお客さんがいます。

彼らの仕事が持つ魅力の源泉は、働く中でつくり手本人が感じている喜びや快感にある。またその仕事の感覚は「いつか」ではなく、いまこの瞬間に向けられている。彼らは仕事において「今この瞬間の自分」を疎外しない。自分が他でもない自分であることで、その仕事が価値を持つことをよく知っている。

このように行われる仕事は快楽的で、また本人だけでなく、他人をも疎外しないように思う。

この本の始まりがデザイン雑誌であった関係で、インタビューの対象はデザイナーを仕事にしている人が多くなっています。このため、書評では「自分がやっている仕事に参考にならない」という意見もありますが、実は「デザイン」という言葉は、一般的なイメージより深いものを含んでいます。

デザインという仕事の本質はモノを形づくることよりも、むしろ”提案する”ことの方にある。

デザインとは極めて個人的なアイデアを、具体的な形で世の中に提案する仕事だった。企業の依頼をうけてその経済活動を美的側面から支援するというデザイナーの仕事は、おもに大戦以降、資本主義社会が発展していく過程で形成された、わずか約半世紀間のデザイナー像に過ぎない。

そのスタイルが最も極端化した国が日本。そして同じく近代デザインを発展させながら、日本の対角線上に位置しているのが、僕の知る限りイタリアという国である。

イタリアのデザイナーの大半は、大学を卒業した瞬間からフリーランスとなる。ほとんどの企業は専属のデザイナーを雇わないし、有名なデザイン事務所の席にも限りがあるからだ。従って彼らは常に、自分のデザイン提案を企業あるいはアートディレクターに持ち込んで、仕事のチャンスを自らつくり出す。

イタリアではデザイナーという言葉の代わりに、「プロジェッティスタ」という言葉がよく使われる。全体を計画し前へ進めていく人、という意味だ。つまり、イタリアにおけるデザイナーの仕事は、依頼されたものに美しい色や形を与えることでも、特定分野に限られた専門職でもない。「何をつくるか」を提示し、現実化に向けたリーダーシップを取ることがその仕事の本随なのだ。仕事の起点は、それぞれのイマジネーション(想像力)にある。

単純に比べると、イタリアのデザイナーは個人に立脚したところから仕事を展開し、日本のデザイナーは企業を起点に仕事を展開してきた。別の言い方をすると、前者は「頼まれもしない」のに自分の仕事を考え・提案し、後者は他社から依頼されることで仕事を始める。

もちろん、会社で働くことと個人で働くことを、対立的に捉える必要はない。要は、仕事の起点がどこにあるか、にある。私たちはなぜ、誰のために働くのか。そしてどう働くのか。「頼まれもしないのにする仕事」には、そのヒントが含まれていると思う。

「(イタリアの)デザイナー=プロジェッティスタ」ということを発見したことが、私にとって一番大きな収穫でした。私は3年前に「プロジェッティスタ(プロジェティスタ)」という言葉に出会って以来、自分の仕事はプロジェティスタであると定義して、名刺にも「プロジェティスタ」と入れています。この本を読んで、プロジェティスタという仕事は、(イタリアの)デザイナーに近いということを再発見しました。まだまだ道半ばでありますが、よりよいプロジェティスタになるべく、一層精進しないといけないと思いを新たにした次第です。

著者は日本とイタリアの働き方の違いについて、エピソードを紹介しています。ここで、大きな疑問を持つに至ります。

自分が当たり前に思っていた働き方が、あくまで日本のローカルな常識でしかないことに気づかされ目が覚める思いだった。

(著者の日本人の知り合いがイタリアに旅行した際に)イタリア人の友人の家を訪ね、楽しい一時をすごしていたという。帰る時間がせまって、また来てくれるかなといった話になった時、彼は「そうだな、今度休みをもらえるのは…」と話し始めた。するとイタリアの友人は間髪を入れず、「休みをもらうって、誰から?」と、真顔で聞き返したという。

”私たちは本当に会社に能力を売ることで対価を得ているのだろうか”という疑問である。

人は能力を売るというより「仕事を手に入れる」ために、会社へ通っている。そんな側面はないだろうか。

首都圏のワーカーは、片道平均80分をかけて満員電車に乗り、会社へ通う。決して楽とは言い難いその行為を毎日くり返す理由は、自分の求める「仕事」が会社にあり、近所ではそれを手に入れられないことにある。

先にも触れたとおり、仕事は自分を社会と関係づける重要なメディアである。日本のような企業社会では、「仕事」という資源はとくに会社に集まっている。私たちは野菜や食料を買うためにスーパーマーケットへ出かける。それと同じく、会社とは「仕事」という商品の在庫を抱えたスーパーマーケットのようなものだと考えてみる。小さな会社は、商品(仕事)の品揃えが少ない。大きな会社は売り場面積も広く、商品(仕事)の品揃えや種類も豊富だ。

自宅に畑があり、近隣であらゆる食材が手に入るとしたら、スーパーには通わない。少なくとも依存的にはならないだろう。しかし私たちは通う。自給自足する手段を持っていないからだ。ワーカーが能力を売っているというより、会社が「仕事を売って」いるのである。

ところで、私たちが会社から仕事を買っているとしたら、そこで払っている対価はなんだろう。

それは「時間」である。そして時間とは、私たちの「いのち」そのものである。

どんな状況下でも、自分の働き方は自分でデザイン出来る。「今日、どう働くか」は、自分で選択できるからだ。

仕事を「自分の仕事」にするポイントは、仕事に自分を合わせるのではなく、自分の方に仕事を合わせる力にある。

自分の仕事に対するオーナーシップを、常に自分自身が持っていること、その仕事を通じて、学びを拓きつづけていくこと。これらはこの本を書いている僕自身の問題でもあるのです。

ここで紹介した内容は、ほんの一部分の抜粋に過ぎません。この本は、答えが書いてある本ではありません。著者が発見して提示する内容を自分の頭で考えるための本です。

興味を持たれた方は、<自分の仕事をつくる>と、続編の<自分をいかして生きる>を読んで考えてみることをお薦めします。

あなたが毎日やっている仕事は「自分の仕事」でしょうか。

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