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顧客サービスとITのおいしい関係を考える

【7ヶ月目】震災の復興とIT業界の話

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連休が明けた本日11日は、東日本大震災からちょうど7ヶ月目になります。

トライポッドワークス株式会社の佐々木社長は、オルタナブロガーの一人でもあります。地震の被災地となった仙台に本社があるIT企業の立場から、東京と仙台をつないでITを使った復興支援に尽力されています。

9月29日のITmediaさんの社内勉強会に於いて、佐々木さんが講演しました。その時の様子が、Ustreamで公開されています。

私はITmediaさんのご厚意により、会場で直接お話を聴くことができました。より多くの方で共有すべき内容と思いますので、抜粋をお伝えしたいと思います。私が特に重要と思った部分は、太字になっています。

聞き書きのため、間違いがあるかもしれません。また、一部省略した部分があります。興味を持たれた方は、Ustreamを直接ご覧ください。

ボランティアというより企業人として津波被害を受けた東北沿岸部に貢献したい、との思いで手探りで活動中。

仙台市内にある会社と自宅が被災した。自宅を片付けるまでの2日間の避難所生活を体験した震災の当事者の立場。

9月11日の震災から半年を機会に、三陸でメディア関係者と地元関係者で合宿をした。目的の1つは、半年後の状況を見てもらうこと。仮設住宅で暮らしている住民や事業復興をめざして活動している人の話を聴いて、IT業界として何ができるかをディスカッションすることだった。

「ITで日本を元気に」をやっている。津波被災地に道具としてのITが役に立つことはないか、5年10年活動していく。

仕事をする環境として東北はマーケットが小さくてたいへん。ITのマーケットはさらに小さく、下請け孫請けが多くて儲からない。なんとか地元のIT業界を活性化できないか。地域ならではのモデルを作っていく。

メディア編集長パネルディスカッションをした。参加者は地元150名、Facebookだけで集客した手作りイベントだった。

震災前にFacebookで仙台で人を集めても、絶対に集まらなかった。震災後にFacebookやTwitterを新たに始めた人が非常に多い。これは仙台市内だけでなく沿岸部にも共通する。

震災で情報の大切さが身にしみた人が多くなっていて、情報を収集することと発信することがいかに大切か、情報を取り扱う上で、ITという便利な道具、特にSNSを使っていこうという機運が高まっている。

東北人には珍しく、地元企業から「自分たちもプレゼンしたい」という話が出て、10社のライトニングトークのプログラムを加えた。

これを機会にビジネスチャンスを作っていこうという若い経営者・技術者が、増えてきていると感じている。地方の企業はブランディングが弱い、というか重んじていない。やったことをアピールしない。もう少しアピールして、ブランドを作ることをしていかないといけないと考えている。

トライポッドワークスは設立6年で、従業員20名くらいの会社。東京と仙台に各10名いる。

震災当日は仙台にいた。仙台市内はたいへんな揺れだった。パソコンやサーバが吹っ飛ぶくらいの被害だったが、PCは一台も壊れなかった。何より幸いなのは、社内にあったデータが失われなかったこと。業務系のデータは外部にあったので問題なかったが、手元のデータがなくなっていたら大変だった。

震災直後の通信インフラ状況は、PHS含めて電話は全滅だった。3Gのパケット通信は生きていて、会社のメールやTwitter、Facebook、Skype音声はなんとかできた。それらを使っていた人と使っていなかった人で、情報量は雲泥の違いだった。

トライポッドワークスは普段からロケーションフリーな事業をめざしていたため、仙台、東京、札幌の3カ所で1時間くらいで全員の安否確認ができた。他のIT企業は、翌週の真ん中まで安否確認にかかっていた企業が多かった。経営者からすると、安否確認が完了するまではBCPの実行どころではない。日頃からどういう形で安否確認するか取り決めておくことが重要。

今回の仙台は3Gのパケットが生きていたが、東京では同じことはできないだろう。東京であれば回線のパンクが予想される、またつながってもTwitter/Facebookのサーバーがダウンするかもしれない。

仙台が幸運だったのは、Twitter/Facebookを使い始めたのが震災後であって、震災時はスカスカだった。だから使えた人はメリットを享受できた。今はTwitter/Facebookが広まっているので無理だろう。東京はもともと使っている人が多いためさらに難しい。デジタルなコミュニケーションは難しいと思う。

所在を紙に書いて会社のドアに貼っておく等の、アナログな方法も役に立った。

当日にもう1つやったことは、会社ホームページの更新。無事で元気であることを伝えることが事業のリスタートに重要と考え、当日の夕方6時にページを更新した。後でわかったことだが、多くの東京の取引先がホームページを見ていた。迅速にやることがいかに大切か、身をもってわかった。

歩いて自宅マンションに帰ったところ、割れるものは全て割れているような状態で、片付けるまでの2晩、小学校の体育館に避難した。避難所はとにかく寒かった。この時、何か手伝いをしたいと思うようになった。

以前から地震が多い仙台は、耐震性が高い建物が多く、また火災が起きなかったため、街中はテレビの絵になるような状況は少なかった。ただ、物流・情報のサプライチェーンがズタズタになっていて、とにかく不便だった。コンビニ・大手スーパーは1ヶ月くらいモノがなくて閉店していた。地元の朝市などで行列して野菜などを買って、近所で物々交換して助け合った。

仙台は当日と翌日が最低の状況で、その後は、少しずつ毎日良くなっていった。東京と比べて絶対値では圧倒的に不便だったが、毎日良くなることで雰囲気は明るかった。仙台市内は不便は強いられていたが明るい雰囲気だった。

車で10~15分離れた沿岸部は、津波の被害がひどかった。幹線道路で津波に流された車が片付くまで、二ヶ月くらいかかった。

三陸はさらに被害が大きかった。今後はガレキの処理が難しい問題になってくる。

情報発信をしないといけないと思って、翌週にFacebookを使って地元IT企業の状況を伝えるファンページを立ち上げた。アクセス数が多かっただけでなく、励ましの声や仕事の紹介まで流通するようになって、震災後のポータルサイトとして一定の効果があった。

その後で「仙台から日本を元気に」と「ITで日本を元気に」という2つの団体を作った。

震災後に「○○クラウドサービスを無償提供」というようなサービスはたくさんあったが、実際に使っているのを見たことがない。そもそも停電していてネットが使えるわけがない。そこで思ったのは、支援する側とされる側の状況把握にあまりに乖離があって、今欲しいモノが提供されていないこと。うまくハブになってコーディネートする存在が必要と考えた

ITの支援といっても南三陸は6月くらいまで停電していたので、最初の頃は小さい避難所や民家に物資を提供していた。

またユニクロ等の寄付をしてくれる企業に、男女別、サイズ別の明細など、現地の細かいニーズを伝える活動をした。こういう情報があると企業側も支援をしやすい。

ITフェーズでも同じようなことをしている。HP、富士通等に明文化したニーズを伝えて、PCを提供してもらった。ソフトバンクにはiPhone/iPadや3Gカードを提供してもらった。地元からも情報を発信し、横の情報の連携をうまくしてもらうことをやっている。

活動しながら地元に人脈ができたので、これから的を絞った支援をする上で、地元の事情やパスがわかる。今にして思うと、震災直後のIT業界のサービスが受け入れられなかったのは当たり前の話で、ふだんの仕事に当てはめてみると、一回もお客さんのところに行ったことがないのに、提案書を送りつけて「これを買ってくれ」というのと同じだった。想像でやっているだけ。「この人はこれが欲しいんじゃないか」と思い込んで売りつけるのに似ている。自分がやっていることを思い返すと、営業しているのと同じと思っている。物資を配りながら、雑談して、人を紹介してもらって、仲良くなって、現地のニーズがだんだんわかって、その中で自分たちが何ができるか考える、仕事で言うとソリューション提案できる関係性を作るのが半年くらいかかった。この環境をベースにして身のある支援をやれないかと思っている。

沿岸部でスマートフォンを買って、Facebook/Twitterを買い始めた人が非常に多い。特に若者に多い。そういう人たち向けに即席の講習会をこまめにやっている。他に、PCやネットワークの提供を支援している。

活動を通して地元の若者と知り合った。事業をしている人は、震災前の問題点をクリアしてよりよい仕事の場を作っていきたいと思っている。情報に目覚めた人もいる。それをどうやって生活や仕事に活用していくべきかと、考えている人がいる。人生をかけて地元に入っている若者が、たくさんいる。そういう人が外部の人間と融合して、何かしら復興に向けて新たな取り組みの成果が出ていくと、先進的な田舎になるモデルができないかと思ってやっている。

情報発信をしないといけないと考えている。特に生の情報を出していかないといけない。ニュース性という意味ではプライオリティーが下がってきているので、頻繁には難しいと思うが、要所要所でその時の課題やテーマで取材して情報発信していただけるとありがたい。それを見ることによって問題点が整理されたり、「俺が手を貸すよ」という人が出てきたりするかもしれない。

とにかく一つ言えるのは、ITに携わる人間として情報がいかに大切かを改めて思った。IT業界の人たちはどうしても勘違いしていて、電気が通っていてネットワークが通じている時の情報だけを、ITという道具を使って流通させている。ところが、震災時のようにインフラがない中でどうするか、我々が普通に使っている道具を地方の人たちが使っているかというと、若者でも使っていないし、まして子供やお年寄りは全く縁がない。そういう人たちに情報をどう届けてどう発信してもらうかを考えると、紙媒体は重要であり、対面してのコミュニケーションはすごく大事。情報を考えた時に、デジタルとアナログ全部ひっくるめてどのように有効に活用していくのかを、我々IT業界は、情報を普段から生業にしている人間として考えていかなければならないテーマではないかと思っている。

質疑応答:

より地元の情報を流してほしい。細く長く震災情報提供サイトを続けて欲しい。復興はこれから。

ボランティアに行くかどうかは、ちょっとしたきっかけだ。仙台まで来てくれればいっしょに現地へ行く参加型の活動をしている。まずはお手伝いをしながら、現地をちゃんとわかってもらうことを目的としている。これまでにのべ300人が参加している。

「企業人として役に立ちたい」というのがあるだろうから、そういう観点で現地の人と話をしてはどうか。来てくれればいろいろな人に会わせることができる。

モバイルの話で言うと、仮設住宅の中はケータイが全然通じない。仮設住宅が建っているところは今まで人が住んでいなかった所なので、まず基地局が遠い。外でもアンテナ1本2本が限界の所が多い。しかも仮設住宅は壁が鉄板なので、中で電波がさらに通じない。こういうのは行ってみないとわからない情報で、かつ行った時に、そこに生活している人と接点がないとわからない。

モバイルやクラウドといった我々が使っているITが、何の役に立つのかは、津波と関係ない。我々は都市部に生活していてこういう仕事をしているから、ITが役に立っている。一方、(東北の)彼らはとことんまで少子高齢化が進んでいる地域に住んで仕事していて、学校、病院、買い物するところがないというのは、今に始まったことではない。若者がどんどん外で出て行って、老人の比率が高まっている。そういう中でどのようなアプリが必要なのか、現地に通っている自分にもわからない。それを見つけられると、実は東京以外に日本のどこでも必要とされる仕組みではないかという気がしている。日本独自のアプリケーションは、ああいう所から出て来るかもしれないと思っている。それは、ずっと必要を感じている地元の人がITという道具を手に入れた時に思いつくのかもしれないし、使い方を知っている我々が彼らと話しているうちに見つかるのかもしれない。

ITには語り部の役割もあると思う。あの時、半年後、1年後どうだったのか、記録を残すべきと思う。

もし次に同じような事が起きたら、ITを提供するのではなく、ITを知っている人を現地に派遣することをやりたい。数少ないITのリソースをどう使うかという知恵が基本的に地元にないことに加えて、地元の人はそれぞれの役割や立場で物理的な復旧に向けててんやわんやで、ITを落ち着いてやれない。ITが使えて情報を専門にやる人を、市町村に1人くらい外部から派遣するだけで全然違う。無償のITのサービスを提供することよりも、業界としてすべきことではなかったかと思う。安否確認や物資のバランスなどすべて情報なので、ITがわかる誰が責任を持ってやっていたら、もう少し効率よくできたのではないかと思う。

CIOのようなイメージの立派な人ではなく、フットワークが軽くてITを道具として使える人、情報の大切さを理解している人を想定している。そういう貢献の仕方を今回感じた。

現実には難しいが、IT業界がマンツーマンでどこかの市町村を担当したら、復興はうまく行くんじゃないかと思う。力が分散している。ボランティアも行政もそう。例えば、大船渡は富士通担当、気仙沼はNEC担当、のような極端なことをヤルのも、一つの手ではないか。

阪神大震災を経験した神戸の人たちの話でなるほどと思ったのは、阪神地震の反省から、消防団と同じように情報団を作って、普段から町内の情報に責任を持つ人を決めたとのこと。そういう事例もある。

ITmedia Sessions (社内勉強会) 09/29/11「震災復興とIT」

http://www.ustream.tv/recorded/17571875#utm_campaign=synclickback&source=https://statichtmlapp.heroku.com/tab/4&medium=17571875

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