【ホットケの島 】あの夏の思い出:一番自由だった夏
オルタナブロガーである限りある日突然やってくる「番長と遊ぼう」、今回のお題は「あの夏の思い出」だとか。
噂によると、お題を出すだけ出して、ばんちょ~本人は南の島に国外逃亡したらしい。しかし、だからと言って無視して書かないわけにはいかない。次のブロガー懇親会でショットガン対決を挑まれても困る。
でも、ドツボにはまったプロジェクトは夏じゃなかったしなあ。では、この話で。
それは私が社会人3年目だった1986年の夏。
新卒で入社した会社をあっさり辞めた私は、250ccのバイクHONDA VT250FCにテント他の荷物をくくりつけて、日本一周の旅に出たのだった。
夏と言っても、実は7月は梅雨のド真ん中で、雨が多い。西へ向かった旅は、半分以上が雨の中だった。雨カッパを着ていても、バイクで雨の中を走ると、前は見えないし、体が冷えて寒い。体力的につらく、修行に近いものがある。
ずぶ濡れでは飲食店に入ることもためらわれる。道路脇の神社の軒先でカロリーメイトをかじって、雨が降るのを見ながら昼食を済ませたこともあった。鳴門大橋では、激しい風雨にあおられて橋から海に落ちるかと思われた。下は当然ながら鳴門の渦潮で、落ちたら終わりだ。
辛いことや危ないことはあったが、それでも自分が自由であることが毎日楽しかった。朝、目を覚まして、会社に行く必要はなく、今日はどこまで行こうかと考えるだけだ。走りながら途中で寄り道をしたり、行く先を変更したりも自由だ。この時ほど自分が自由だと感じたことはない。
南は九州本島最南端の鹿児島県の佐多岬から、北は北海道最北端の宗谷岬まで、40日をかけて1万キロを走った。途中でいろいろな所へ行って、素晴らしい景色を見た。地方の名物も食べた。そしてそれ以上に自分のためになったことは、旅の途中で多くの人に出会って、話ができたことだ。旅で会う人の多くは、二度と会うことはない。まさに一期一会を体得できたのだった。
そして、私は人生をリセットして、少しだけ大人になって帰ってきた。
「若者はなぜ3年で辞めるのか?」なんて本は出ていなかった、20年以上前の話だ。定年まで勤めるのが当然の時代に、わずか2年2ヶ月で会社を辞めることは珍しく、かなり勇気がいることだった。しかし、今振り返って考えてみても、あの旅は自分に必要だったと言える。
その後の自分は、住むところは横浜市内から一歩も出ずに、そして仕事では相変わらず旅を続けて、とうとう自分の会社を持つところまで来てしまった。ずいぶん遠くまで来たと思う。
世間では人生設計をしなければいけないと言われるが、私は未だに旅の途中だ。3年前に今日を予想できなかったし、来年どうなっているか全く予想がつかない。