ビル・ゲイツのセカンドライフ
マイクロソフトのビル・ゲイツ会長がいよいよ6月27日に会長職から退きます。今後は非常勤という形でマイクロソフトに関わっていくそうです。完全な引退ではありませんが、一つの時代の区切りです。
ビル・ゲイツは1955年10月28日生まれです。私の7歳年上になります。世の中に対する影響力や業界への貢献度では全く比べものになりませんが、あえて言うならビル・ゲイツと私は、パソコンの創世記からパソコンの可能性に注目してコンピュータ業界に関わってきたという点で共通しています。私にとって、今回の退任は感慨深いものがあります。
私はパソコンがマイコンと呼ばれていた頃から興味を持っていじっていました。
1976年にNECからワンボードマイコン組み立てキットTK-80が発売されました。今で言う組込系コンピュータです。TKというのは「Training Kit」の頭文字を取ったものです。NECの半導体事業部がマイクロプロセッサーの用途を考えてもらうために出した評価用キットでした。
TK-80はICチップが載った基板がむき出しで、電源は別売りでしかもNECから販売されていませんでした。動くようにするまでかなりのスキルが必要でした。何かやりたければハードウェアの回路図を見て自分で作らないといけないとか、プログラムは16進キーボードからマシン語で入力するとか、なにかと手間のかかる機械でした。(余談ですが、この時に回路図をちゃんと勉強していれば、私は今頃は立派なハードウェア技術者になっていたのではないかと思います。)
TK-80から始まった日本のマイコンは、BASIC言語を搭載したパソコンへ進化して、MS-DOSが載ったいわゆるパソコンになりました。このBASIC言語やMS-DOSをパソコンメーカーに供給することで成長したのがマイクロソフトです。
そして、日本のパソコンメーカーにBASIC言語やその他のマイクソフト製品を売り込んでいたのが、米国マイクロソフトの極東担当副社長であった株式会社アスキーの西和彦氏でした。
アスキーは私がサラリーマン経験の中で最も長く勤めた会社です。当時の西氏は「出版は紙の上のインクの染み、半導体はシリコンの染み、ソフトウェアはフロッピー上の磁気の染み」とよく言っていました。
絶頂の時のアスキーはスゴイ会社でしたが、衰退もドラマチックでした。西氏と並んで「神童 vs 天才」と言われた孫正義氏はパソコン業界だけでは収まらず、実業家・経営者になりました。一方、西氏は教育の分野に転身しました。「教育は脳ミソの上のタンパク質の染み」というところでしょうか。ITを極めると人や教育に興味を持つようになるというのはわかるような気がします。
ビル・ゲイツは今後はビル&メリンダ・ゲイツ財団を通して医療や教育分野の社会貢献をしていくそうです。先日の取材でビル・ゲイツは「どのOSが使われているか気にすることなど、飢餓や人の生死に比べたらたわいもない問題だ」と述べたそうです。ITを卒業した人間が向かうべき方向であるように思われます。
私が設立した株式会社テクネコの経営理念は「テクノロジーとネットワークで人と人とのコミュニケーションを加速する」です。20数年にわたっていろいろな会社を見てきて、「コンピュータシステムだけ良くてもダメで、それを使いこなせる人の育成も重要だ」と気づいたからです。私も40代後半になり、自分の今後について考えることがあります。ゲイツ財団には遙かに及びませんが、株式会社テクネコを通してささやかながら社会貢献ができたらと思っています。
パソコンやインターネットを使えば解決しそうな気がするがどうしていいかわからない、というお困り事をお持ちの方がいましたら、お気軽にメールをいただければと思います。社会的な意義があれば、商売抜きでお手伝いいたします。