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いい教育もある、だけど悪い教育もあるよね

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GWに各地の公園に行きまくって死にかけてたすぎもとです。こんにちは。小学生くらいの親だと休みの日のほうが圧倒的に疲労しますので、連休はキツイです。

さて、子供たちもGWあけて小学校1ヶ月が過ぎようとしており、学校に行く、ということにもだいぶ慣れてきた感じです。前にも書きましたが、僕の会社では去年出産ラッシュで、ずいぶん子持ちの社員が増えました。この規模でこの平均年齢の会社にしては子持ち率はなかなか多いのではないかと思っています。で、やはり社員同士で話題になるのが教育の話です。ぼくはこのことを考える度にどんどんわからなくなってきてしまいます。

習い事や通信教育など、たくさんのDMが家にやってきます。メディアにも教育コンテンツはたくさんあって、少子化の分ひとりひとりにかけるお金を増やせと言わんばかりですよね。毎回〆切り間近、みたいなことで親の気持ちを煽ろうとしていてなんだかなぁと思いつつ見てます。

そういう誰かの作った教育コンテンツとは別のところではありますが、うちのCTOなんかは「子供(小1)とドミニオンやってる」とか「Raspberry Piで遊ばせてる」とか、自由すぎてすごろくさえまともにできないうちの子供たちからするとレベルが高すぎて到底出来ないことをさらっとやっていたりしてします(まあ、うちの場合は子供たちであれば、昆虫を捕まえたり飼ってみたりするのは毎年やってますが、そのくらい)。このへんは、親が遊びたいから、という動機から来るところはもちろん大きいわけですが、「教育」という側面にも色目を使っているという点はまず間違いないでしょう。

そういったいろいろなものは「子供の教育に良い」と言われて、あるいは、そう思ってやることではあるのですが、この「良い」ってのはいったいなんなんだろうな、と思ったりするんですよね。

子供のうちにいろんな習い事を詰め込む、なんてことが疑問視されることがあります。まだ小さいうちにひどく厳しい指導していいのってことですよね。わかるんですが、一方で、世界的な音楽家とか、伝統芸能の担い手なんかは、子供のうちから抑圧されているかのような教育をされているという話もよく聞きます。なにをもって「良い」「良くない」を言えるんでしょうか。世界的に成功した音楽家って「良くない結果」として存在するんでしょうか。本人が幸せであれば良い、という話もありますが、本人が幸せかどうかは「どの段階」で計るんでしょうね。音楽家が子供時代ものすごく練習が嫌だったなんて話は普通にあることです。嫌なことを押し込めることは「良くない」ことだったんでしたっけ。

そういうことを考えてると、何も出来ないなあと思ってしまうんですよね。たとえば、我が家の子供たちはありがちな話ですがピアノを習っています。二人がやりたいと言って始めたピアノですが、練習はやはり好きではないようで、かなりの確率でいやいややることになり、親としてイライラもあってここまでしてやる必要あったんだっけとか思ったりするときもあります。こんなのをどこまでやったらいいんでしょうね。嫌なら止めろ、だと子供のことですからぜんぶ入り口に立ってはやめることになりそうですし。実際プールはそれで止めちゃいました。人と比べたってしょうがないですが、本人がやりたいと言ったとき何もやらせないのもなんだか違うし、そもそも教育以前に金銭的時間的空間的いろんな問題があって、何が「良い」なんてわかりません。

いやね、この手の悩みって、まあかなりスタンダードなものだと思います。でも、たいてい悩んでるうちに子供たちは大きくなってしまって、結論が有耶無耶になるパターンなんじゃないかと思ってます。教育ってのは本当にわからんわけです。なんでこんなややこしいことになってるんだ!責任者出てこい!なにをもって「良い」って言えるんだ!

まいどのことながら結論はありません。責任者も出てきません。というか責任者はぼくでした。すいません。なのでもやもやしたまま終わります。あ、そうだ思い出した「良い絵本」ってのもなんなんだ、というのもいっつも思うんです。でも絵本の話はいろいろ書きたいことがあるのでまた次の機会にします。ではさようなら。

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