ぼくには自動車の運転は難しすぎます
先週は連続でニュースを賑わせた自動車の暴走事故を見て思ったことを書こうとしてて、忙しくなってそのままになってしまいました。そしたら、その後にも自動車事故のニュースが相次いでいて、どんどん気が滅入ってきますね……。
我が家の幼稚園児たちも、基本的に集団での徒歩通園なので、これまでも自動車事故のニュースを見る度に人ごとじゃないなあと思っていましたが、あらためて怖いなあと思います。ぼく自身は運転免許は持っているものの、実際に運転をしたのは数えるほどで、免許証は単なる身分証明書になりさがっています。幸い都心に住んでいることもあって、電車やバスといった公共交通機関でなんとかなっています。実家のあるところは完全な車社会なので、あそこに住んでたら運転せざるを得なかったのかなどと思い、車に乗らないですむということは、ぼくにとって都会にすんでいるメリットのなかでもけっこう上位に位置するものです。じぶんのあらゆる運動能力の低さを鑑みるに、出来れば運転なんてしたくないわけです。
もともと自動車というのは好きではありません。ただ、実家の生活を見ると、やはり都心部以外では自動車というのはかなり重要な生活のインフラになっていますし、都市にすむ我々の生活が極めて便利なのは流通の力ですから、ここにも自動車が絶対的に絡まざるを得ない。これをいまさらいきなりなくすのは、というのは無理です。ただ、なくすのは無理でも超長期的に減らすようなビジョンは社会的合意として持てないもんかなあ、とも思うんですよね。自動車産業自体が経済の支えになっているせいもあるのか、原発と違って「目に見えて個人にメリットがある」からか、ほとんど同じ効果を持つ代替手段がないせいか、いろいろ理由はあるかと思いますが、いまはそういった機運もほとんどない気がするので、なんだか寂しい気がします(まあ寂しい、という程度なので、甘いのかもしれませんが)。
いっぽう、減らす減らさないとは独立した話として、現状は自動車中心の社会になっていることを前提としていろんなことを考える必要があるのも確かですよね。たとえば祇園の事件はてんかんへの差別問題が非常に気になっています。正直、てんかんという大づかみな病名によるスクリーニングで免許を制限するのは手段としては不適切ではないかと思っていますが、残念なことにフライング気味にてんかんと言う言葉が報道されて、その反応をネットで見ても「てんかん」でのスクリーニング強硬派が目につくので悩ましいなあと思いました。ただ、差別問題は別にあるとしても、普通免許を要求する仕事がこれだけ多いこと自体が自動車に依存しすぎていることだよなあ、とも思うのですけれど。
あいかわらず結論のある話題ではありませんが、こんなことを考えてるあいだに高速道路の事故のニュースが飛び込んできて、あれはあれでいろんな問題を孕んでいるようで、もっと悩ましいことが多いなと思う日々です(もちろん個々の事例について素人のぼくが出来ることはないわけですが)