司馬遼太郎さんに学べば、iPhoneの凄みが分かる
iPhoneがなぜ凄いか。僕がなぜ重要視しているかの理由を述べる。
それは、iPhoneは文明であり、日本のケータイは文化だからだ。
司馬遼太郎さんの著書、『街道をゆく』のどれかだったか『アメリカ素描』であったかは忘れたが、彼は文化と文明の違いを以下のような説明をしていたと記憶している。
”文明とは『たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの』をさすのに対し,文化はむしろ不条理なものであり,特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので。他には及ぼしがたい。つまりは普遍的でない”
これを受けて僕がより簡潔にまとめると、こうだ。
文化=民族内のローカルルール
文明=民族間のグローバルルール
例えば日本人的な阿吽の呼吸(笑)を相手に期待したり、都会では失われつつあるさまざまなしきたりのようなものは、それに従っている限り、非常に濃密な人間関係を保てるし、心地よく過ごすことを許される、暗黙のルールだ。これらを司馬さんは「文化」と呼ぶ。民族や地域、ある種のコミュニティの中で快適に過ごすための、閉鎖的ではあるが完成されたルールだ。
一方、信号などの交通ルールや、海外渡航に関する手続きや資格などは、むしろシステムであり、人間性よりは非常に機械的というか機能性そのものである。
(同時に、文化は記憶によって保たれていくが文明は記録によって保たれているといってもいい)
日本のケータイは、主に絵文字に代表される特殊なメール機能、おサイフケータイやモバイルSuicaのような社会インフラ的機能、そしてキャリア依存の特殊なネット環境、という文化に支えられて繁栄している。
しかし、日本独自の生態系であり、世界の環境とは違う。もちろん、絵文字などは既にGmailで再現できるし、世界のモバイル環境にも採用されていく可能性はある。そうなれば文化は文明に変わる。おサイフケータイも世界中で使えるようになればもちろん同じことだ。
ただ、現時点で、日本のケータイキャリアはその努力をしているようにはみえないし、ケータイ端末メーカーも世界市場に販売できる機種を持っていないし今のところは持つつもりもなさそうだ。日本の文化に合わせて設計するか、世界の文明に参加するかを自ら決めなくてはならないわけだが、固有の文化はあまりに心地よいので、そこから出て文明に参加することは多くの人にとって難しい選択である。
(それでも日本の暑くて寒い風土に即して発展した着物や草履を捨て、洋服を採用したではないか)
iPhoneは最初から世界市場で戦うことを念頭に設計された、グローバルケータイだ。日本のケータイは、国内市場でしか売れないローカルケータイだ。
すくなくともITを含むハイテク製品で、グローバルとローカルがぶつかって、ローカルが残った例はほとんどない(皆無、とはいわない)。
iPhoneはついに国内上陸した。鎖国時代は終わったのである。
グローバルルール(文明)の流れに、ローカルルール(文化)がどれだけ残れるものか。これが僕の見解だ。