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龍馬伝ファンに聞く、「後藤象二郎」という生き方(後篇)(コラボ#14)

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後藤象二郎.jpg
(画像は龍馬伝公式サイトより)

さて、前篇に引き続きまして龍馬伝ファンの中で話題の「後藤象二郎」について書いて参ります(「前篇」はこちら)。実を言うと、私は小学6年生の時に「まんが日本の歴史」を読んで後藤を知りました。以後十数年、多くの本や映画作品を見て来ましたが、ストーリーが歴史上のある出来事に触れるにつけ、彼の名前を見るのです。歴史の授業ではあまり取り上げられることもなく、補足程度の説明でしたが、幕末関係の書籍には必ず載っている後藤。その彼を表すキーワードは「大政奉還」「自由民権運動」。どちらもその後の日本を大きく変える出来事でした。今回は、文献などを参考にしながら、後藤という人物に迫っていきます。そこから見えてきたものは、時代の節目で彼のとる「旋回ぶり」でした。

この記事の前半は、後藤象二郎という人物について書き、後半は#ryomaden(龍馬伝ハッシュタグ)の方からのコメントをご紹介します。今回はハッシュタグの方々とのコラボです。


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天保9年(1838年)に土佐に生まれ、義理の叔父である吉田東洋の私塾に学ぶ。東洋暗殺後はしばらく影を潜めるも、のちに復帰。開成館と呼ばれる物産センターを設置し、土佐の産物(紙、樟脳、茶など)を長崎・大坂(現在の大阪)に輸出する。各方面との貿易をするなかで、次第に政治姿勢を公武合体派(幕府権力の再構築を目指す思想)から攘夷派に転向。龍馬の書いたとされる「船中八策」を山内容堂(前土佐藩主・幕末の四賢侯のひとり)に提言する。この船中八策は土佐藩を一挙に幕末政局の中心へ押し上げる「大政奉還」を含んでいた。容堂はこれを老中・板倉勝静らを通して徳川慶喜に建白。慶喜は40藩の重臣の前で大政奉還の決意表明をし、翌日明治天皇へ提出された。その二条城で多くの諸藩重臣が退席した後も、後藤と福岡孝悌(土佐出身。五箇条の御誓文の草案作成に関与)、小松帯刀(薩摩出身)、辻将曹(広島出身)の4名のみは慶喜の前に残ったという。

大政奉還が成り、維新後は参与として新政府に参画。工部大輔(工部省のナンバー2)、左院議長などを務める。しかし西郷を中心とする「征韓論」が退けられると下野する(明治六年の政変)。その後、板垣退助(土佐出身)らと「民選議院設立建白書(政府に議会開設を求めたもの)」を建議。これは却下されることとなるが、自由民権運動の出発点となった。

のちに後藤は板垣と自由党を結成。党は離合集散を繰り返すが、その後も民権運動は盛り上がり、大日本帝国憲法制定(1889年)、第1回総選挙(1890年)と続く。この帝国憲法公布の際の黒田内閣で、後藤は逓信大臣として入閣。民権派から批判を受ける。第二次伊藤内閣(1892年)でも、農商務大臣として入閣している(ちなみに、この時の外務大臣が陸奥宗光(陽之助))。そして、3年後の明治30年(1897年)にこの世を去った。


このように、彼は歴史上の出来事に多く関与していることがわかります。しかしながら、ほかの維新志士よりも知名度が劣るのはなぜなのか?理由は定かではありませんが、民権派から一転して政府側に付くなどの「変節ぶり」が評価を下げてしまっているのかもしれません。



さて、ここからは視聴者のリアルな声を聞いてみましょう。Twitter上の龍馬伝ファンに、後藤の魅力を聞きました(ご本人の了解を得て掲載)。

@mihomikeさんのコメント:
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@yuttan10_08さんのコメント:
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@_prune_さんのコメント
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このように、龍馬伝を見ている方の中にもたくさんの後藤象二郎ファンがいることがわかります。ドラマの演出が人気の理由であるとも分析できますが、先述のように史実に基づく彼の活躍ぶりも魅力的に捉えられているのでしょう。

実際、最後の@_prune_さんのtweetにもあります通り、後藤はほかの藩や諸外国の人物から評価されています。例えば、英国公使の通訳として活躍したアーネスト・サトウは、「後藤は、それまでに会った日本人の中で最も物わかりのよい人物の一人であったので大いにハリー卿(パークスのこと)の気にいった。そして私のみるところ、ただ西郷だけが人物の点で1枚後藤に勝っていたと思う」と評しています。

龍馬が容堂に直に会うことは出来ませんでしたので、後藤という存在が無ければ、土佐が大政奉還の案を慶喜公に提出することは出来なかったでしょう。龍馬という人物に隠れてしまいがちな存在ですが、後藤は幕末のキーパーソンの一人であったと言えます。維新後も自由民権運動に尽力するなど、生涯を通して時勢を読んだ行動をしています。急に態度を変える様を「風見鶏」・「変節」と取るか、「柔軟性」と取るかは読者に任せますが、私は後者のように捉え、彼を尊敬しています。

さて、彼の言葉に「事若し行はればずんば余も生還の意なし(大政奉還が実行されなければ、私も生きて二条城から帰るつもりはない」というものがあります。彼にとって大政奉還は、人生を賭けた大勝負だったのでしょうね。



【参考文献】
・激動の時代を切り開いた幕末志士たちから学ぶ 人生で本当に大切にするべき100の言葉(カンゼン)
・RYOMA VOL.4―龍馬暗殺サスペンス劇場(主婦の友社)
・幕末維新人物事典(新紀元社)
・一外交官の見た明治維新(岩波文庫)
・秘話 幕末明治の101人(新人物往来社)
・後藤象二郎と近代日本(三一書房)


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