杉並の不発弾処理で刻む東京山の手空襲
東京杉並で発見された不発の100ポンド焼夷弾は2021年11月28日無事処理されました。発見され通報された方、処理された自衛隊と関係者、昼夜この不発弾周囲を警備された警備関係者、処理の準備でシールド工事をされた方、営業を止められた店舗、避難された方など多くの方に感謝いたします。
現場は住宅地ではありますが、すぐ近くに井の頭通りが通っており処理の時間帯は一時通行止めになるなど大きな影響がありました。
なぜそんな住宅街に100ポンド、約45kgの焼夷爆弾が落とされたのでしょうか?そもそも、この焼夷弾はどういう作戦のもと投下されたのでしょうか?
5月25日の大空襲で東京山の手も焼け野原になった
東京大空襲というと昭和20年3月10日に下町が大空襲されて死者10万人以上の甚大な被害がでたことが有名です。しかし、東京の大空襲はそれで終わりませんでした。昭和20年(1945年)5月25日に東京山の手を広範囲に16.5万戸を焼く山の手大空襲があったのです。
表参道が燃えた日...3600人死亡「山の手大空襲」を振り返る
「どの方角も真っ赤」「焼死体の山」
昭和20年5月25日、空襲警報発令22時22分。
山の手地域に470機ものB‐29が襲来した空襲では、死者3600余人、罹災者は約56万人、焼失16万6千戸にも及び、国会議事堂周辺や東京駅も被災。皇居も被災し 昭和天皇・香淳皇后は御文庫に避難、皇居内の明治宮殿は、この空襲で焼失。
この空襲で東京駅の駅舎も燃えました。その後、応急的な再建がなされたのですが、辰野金吾設計の当初の姿を取り戻すには長い年月を要しました。
ガソリンをゼリー化したものが詰められた、45kgの爆弾が多数、落ちて爆発し火事を起こします。同時多発的に燃えるゼリー化したガソリンが飛び散り激しく燃えるので日本の伝統的建物は消防団による消火がは無理な火災となるそうです。
表参道交差点一帯も火の海になり、堅牢な銀行建築に逃げ込もうとして多くの死者が出たそうです。
表参道交差点、現在の「みずほ銀行青山支店」、当時は「安田銀行青山支店」の手前に慰霊碑がある。
山の手大空襲に際して、多くの人々が、火から逃れようとして堅牢であった銀行の建物前に集い、そしてそのままこの場所で斃れ、そして、この銀行のそばには多くの遺体が積み上げられていたという。
表参道の交差点の石灯籠、欠けたのは焼夷弾が直撃したためで、焼け焦げた跡は今も残るとあります。東京五輪1964で拡幅されて戦前の記憶が残って無さそうな青山の、明治神宮の表参道にはしっかりと戦争の焼け跡が刻まれていました。
青山から杉並は表参道・井の頭通りの一本繋がり
その、大変な被害がでた表参道交差点付近と、今回不発弾処理をした杉並和泉の現場は、実は一本の道で繋がっています。表参道交差点から原宿駅の脇を抜け、代々木公園の山を登って急に下る道が井の頭通りと呼ばれる道となり、杉並の今回の不発弾処理の現場付近へと繋がっています。
郊外の杉並区も広範囲に焼け野原に
表参道から井の頭通りで繋がる杉並区南部も多数の焼夷弾による空爆を受けで一帯が火の海となったようです。不発弾からほど近い井の頭線永福町駅と車庫の電車も消失。東京の都市機能焼失の被害は、3月の東京大空襲以上に大きかったという記述もみうけられました。
今回の現場近くには、明治大学和泉校舎のほか、築地本願寺和田堀廟所があります。もともと江戸時代には江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)だった場所で陸軍の火薬庫となった後に明治大学と築地本願寺へと戦前に引き渡されました。和田堀廟所は、関東大震災を受けた事業で墓地、石碑、本堂などを杉並へ移転させましたが本堂と瑞鳳殿はこの昭和20年5月25日の山の手大空襲で焼失したそうです。和田堀廟所では、地本願寺本堂を模したインド仏教様式のコンクリート造りの建物が戦後に建築されています。
今の平和をありがたく思い、平和の前提に制空権確保があることを先日のブルーインパルス飛行とあわせて思い知らされました。