ゼロリスクに取り憑かれ犠牲を拒否する神なき日本
IOCバッハ会長が「犠牲」発言したと朝日新聞らの報道から大騒ぎとなりました。
(IOC)のバッハ会長が、五輪開催を実現するために「われわれは犠牲を払わなければならない」と述べたと、インドのPTI通信が23日までに報じた。「われわれ」に日本人を含める意図があるのかは不明だが、国民感情に配慮を欠く発言として反発を招きそうだ。
この、「不明だが」と断りをつけて、「反発を招きそうだ」というほのめかし報道は日本のマスコミの常習手段です。これなら憶測をわら人形に仮託して記事を書けます。朝日新聞をはじめ多くの大手マスコミはリスクを取らず自らの主張をしないわけです。社説でオリンピック反対と掲げつつ、経営主体としての朝日新聞はオリンピックを支えるという立場のつかいわけもしています。
ともあれ、この報道でも日本社会はリスクや犠牲を極端に嫌っており、犠牲やリスクにたいして不寛容なのだと改めて思わされました。そもそも、バッハ会長は国際ホッケー連盟で話したことであり、犠牲の話はホーケー連盟やIOCとかの関係者の話のはずです。それなのに、日本にもその犠牲が!といきり立つひとが多いのは、日本が極端に犠牲を嫌うからではないかと考えます。
神無き日本は「犠牲」を嫌がり、ゼロリスク幻想に取り憑かれている
2000年の当時森首相が日本は八百万の神々がいる、神の国だという趣旨の発言をました。しかし、当時もそしてさらに2021年の日本はますます神なき社会、宗教不在の社会になったと思わされます。人間は生きていれば苦しみがあり、老いる、病気になる、そしていつかは死ぬという苦しみの宿命を背負っています。そういう理不尽ともいえる苦しみや悲しみを受け入れる知恵が宗教です。キリスト教的な表現だと人間は7つの大罪( seven deadly sins)を背負うとされます。IOCのバッハ会長もインドを中心としたホッケー協会の人々もおそらく宗教的な Sacrifice (犠牲)とか、不便とかいうことが必要だという共通認識を持っているのでしょう。
一方、現代の日本の人々は犠牲を払うことや我慢することを極端に嫌がっている習性が染み付いて、宗教的な観念や諦念に欠けるのではないでしょうか?「7つのゼロ」を掲げて、「安心安全」をかざす小池百合子氏が都知事に当選して再選を果たしたように、犠牲や我慢をすることを嫌がる風潮が強くなっています。
22世紀に人類が文明を残すには、ゼロリスクを捨て、犠牲を受け入れねばならない
戦後の日本は、平和憲法をベースとして、戦争ゼロという幻想を育ててきました。そして、太平洋戦争の苦難を知る世代が徐々に減る中、東日本大震災や東電福一事故などを経験するなかで、安心安全という方向を強めています。
戦後の日本は安定して、命の危険を感じることも少ない、基本的にいい社会です。しかし、高度成長が終わってデフレの時代に入った後も「終身雇用を守る」ことを重視して、第二次ベビーブーム世代の就職の門を閉ざしロストジェネレーションを生むことになりました。インナーサークルの安心安全を重視した結果、外部に犠牲を押し付けその結果として日本社会の活力や人口維持のための経済活動が停滞したわけです。
SDGs「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」が認知を広め、企業経営や個人の行動にも影響を強めつつあります。ただこのSDGsには犠牲やリスクを伴わないと不可能である という覚悟が欠けているのではないか?そう考えます。私はこのSDGsが非常にきれいな、善意で成し遂げられることのように伝わっていることを危惧します。
プラスチックストローやスプーンを止めて紙や木に変えるとか取り沙汰されています。しかし、22世紀に文明を残すには?という発想に変えるともっと違う大きな取り組みがあることに気づくでしょう。たとえば、電力供給は22世紀に向けて何に頼れるのか?今は、忌避されている原子力発電もこれから50年や80年というスパンでは活用していかねばならないことが分かるでしょう。
そして、ゼロリスク志向を捨て、犠牲を受け入れ、イノベーションを進めて豊かになるために、チャレンジと失敗の許容をすることが特に日本社会では大事だと考えます。世界で4年に一度しかやらない夏のオリンピック・パラリンピックを東京で開催すると願い約束したのは私たちです。そして、なんらかの犠牲やリスクを受け入れる社会に変わる転機であり、試練だとも考えます。
日本社会に宗教的な倫理や道徳を取り戻すのは難しいかもしれませんが、まずは、ゼロリスクに取り憑かれているという自覚を持つことから一歩を踏み出したい、そう願っています。