我々の何がAIに置き換わってしまうのか1
シンギュラリティ(技術的特異点)まであと20年。
日々ものすごいスピードで進化するAI(人工知能)がお茶の間に浸透しつつあるようです。
聞けば今どきの若者は何かを知りたいときに、検索エンジンではなくChat GPTに代表されるようなAIプラットフォームを使うのが当たり前になってきているそうで。
とあるIT会社の方が言うには、
「人工知能から得た答えを、一切チェックすることなくそのまま報告してくるんですよ。」
<え?これ内容が間違っているけど?と問いただすと>
「AIが言っているんだから間違いないです」と。。。
皆さんの職場仲間、上司部下同僚にこのような人はいないだろうか。
巷のAIが人の問いかけに応えることができているのは、それはもちろんAIであっても学習をしてきたからです。
では、その学習した教材がそもそも間違った情報の塊だったら、そのAIは正しそうな答えを導き出せるでしょうか。
AIは単体では一般常識は持ちえません。必ず誰かの、何かの常識を学習してなり立つ仕組みを持っています。
故、現時点では高い頻度で「バイアス」がかかります。と思うんです。
で、先述の若者によるAIの使い方ですけど
どうも排出結果に対する鵜呑み傾向があるようですので、声高に申し上げたい。
チャンと中身を確認しましょう
さもないと、AIに聞いて答えを右から左へ流すだけの仕事に
未來はないと思うからです。
さて、
2045年を「目前に」控えた今、
将来AIに置き換わってしまいそうな仕事は何だろうか
最近では、小説、作曲や演奏、絵までAIで簡単に生成できるようになっていますね。
芸術は死にますか
けど、こうした「作品」の消費者は今のところヒト。
で大切な投げかけは
「我々人類は、コンピュータらしきものが生成した作品をいつまでも楽しむことができるだろうか」
なのです。
最初はいい。コンピュータが描いた絵なんだってほおそりゃすごいもっとみたい
となります。
でも、きっとそう遠からず、人類は飽きます。
なぜって
ストーリーが薄いから。
人間はきっともともと衣食住がある程度足りるようになって、人生を、マズローの法則のちょっと上のレイヤーで楽しむことができるようになってきた。
たとえば「ストーリー」を愉しみたい種族に進化してきたのだと思うのです。
つまり、フィリップKディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」も、ピカソの「ゲルニカ」も、ヴィヴァルディの「四季」も、すべてその時代やその作者の思いや物語がたくさん込められていると思うんです。いや仮に事実として盛り込められなかったとしても、我々それらコンテンツを消費する者にとっては、込められていると信じてあーでもないこーでもないと妄想するのです。
ましてや国語の試験問題で
「本文中の下線部について作者の気持ちはどのようなものであったかを述べよ。」
といった愉快な出題ができなくなってしまうではないか。
だから私は思うのです。
我々は、AIが生成した作品を愉しみ続けるのだろうか。
こたえは否。
いつかヒトは、AIが生成した「作品」に「飽きる」。(キッパリ)
芸術は 永遠に 不滅です。
しらんけど