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もしも洞察力があったなら……。

拝啓、ローレンス・ジョセフ・エリソン殿。

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拝啓、ラリー・エリソン殿、

本日、貴殿、ローレンス・ジョセフ・エリソン殿のニュースを知りました。
「Stepping Down」という文言には、CEOというご職責を譲るということで受け止めました。が、正直、いつかこの日が来ることをかすかに予測しながらも、信じたくない思いでいっぱいです。


私が貴殿と初めて出会ったのは17年半前。日本は東京ビッグサイトで「オラクル、皆くる、春がくる」の標語の元行われた「OpenWorld」というイベ ントで、入社して間もなかった私が「イベントの経験があるし、英語ができる」。たったそれだけの理由で貴殿の基調講演のコーディネートを任されたときのことです。


5,000名が集う基調講演のとりまとめを、毎日のように徹夜しながら準備をし、当日を迎えました。


当時、未だ見ぬ貴殿について、飛び交う取り巻きの皆様による様々な都市伝説を耳にして、さすが世界的なカリスマだな、という思いを強くしておりました。たとえば、


1)    飲み物はTynant(青いボトルのちょっと高級なミネラルウォーター)しか飲まない

Tynant


2)    小腹がすいたときにはバナナしか食べない


3)    デモに失敗するとそのチームはその場で丸ごとなくなる


などなど。

私は半信半疑でこれらの都市伝説を一つ一つ検証してみました。桑港で貴殿はCalistogaやCrystal Geyserのお水を手にQ&Aに臨んでいましたし、日本で用意したバナナには手をつけられませんでしたし、(早く準備しすぎて茶色に変色していたからかもしれませんが)、デモでネットワーク・コンピュータが起動しなかった講演の後もそのデモチームは次のツアーに参加していました。すべて誰かが編み出した都市伝説だということがわかりました。


おりしも今では当たり前になってきたThin Client構想、今で言うクラウドコンピューティングでしょうか。「Network Computer」が発表されて間もなく、あるいはインターネットが普及期に差し掛かるかどうかのその頃。基調講演会場にデモのためのT1ラインを敷設するためにあちこち奔走したことを思い出します。


基調講演の開始時間がまもなくというタイミングで、私は埋め尽くされた会場を確認すべく、後方の音響ブースの付近にいました。その時に、無線に飛び込んできた米国スタッフからの一言が忘れられません。

「Takeo, Larry is calling you.」 (おいタケオ、やばいぞ。)

当日、基調講演のバックステージではちょっとした騒動がありました。私が事前に入手し、翻訳を進めていた貴殿のパワーポイントのスライドを見て「コレジャナイ!」と激昂されたそうです。いや確かにそれが最終版だったと今でも思うのですが、あわてて事態を収集すべく、英語版のスライドの修正と、その場での日本語版の翻訳作業が行われます。

開始時間はとうに過ぎていましたが、尊敬と畏怖で張り詰めた空気の中、貴殿が時間に気がつくまで誰も口を挟むことができませんでした。予定時刻を20分過ぎたところで、プレゼンテーションの修正が一区切り。ふっと、貴殿は顔を上げ、「時間は?Let’s Do It!」と言い放ち、いよいよと基調講演開始のキューを出しました。そう、あのときにキュー出しをしたのはこの私です。


30分近く押して始まった基調講演の内容は、未来を占うかのような示唆に富んでおり、さすがであると高い評価を方々からいただきました。スタッフ一同、胸をなでおろした瞬間です。

秋になると、日本国内のパートナーや顧客がこぞって桑港やロサンゼルスで開催されていた「OpenWorld」に参加していました。そのときに必ずといっていいほど組まれていたのが「ラリー邸ツアー」です。当時はAthertonにあった日本家屋仕立ての家に数十名の招待客が訪れ、ツアーをしていました。私は「イベントの経験があるし、英語ができる」という理由で、家屋に展示してある鎧兜や仁王象などの骨董品を来場客から守るための警備員として派遣されていました。

たいていの場合、主の不在時にこれを執り行っていたのですが、1998年の時には、なんと大勢が来訪中に貴殿が帰宅するという事態が発生しました。ご自宅なんですから、いつ帰ってこようが自由だとは思いつつも、そのときのスタッフ側に生じた緊張感を今でも忘れることができません。皆がカチコチに固まっているところ、貴殿はだれにとはなく話しかけましたね。

「今日は佐野はいないのか?」

と。

そう。日本オラクルを上場させた立役者、当時の社長の佐野力さんのことです。しかし、誰も答えることができません。あまりにも緊張していたからだと思います。私はわずか2秒の空白に耐えることができずに

「No, unfortunately, he is not here today.」(今日は佐野さんはちょっと・・・)

と答えてしまいました。


貴殿はそれを聞いてちょっと考えたしぐさをして、答えた私に向かって

「Come here.」 (来い)

と手で呼び寄せるしぐさをしてくれましたね。私は頭が真っ白になって、警備の仕事をすっかり忘れて、隣にいた女性の同僚と共に二人で母屋の階段を上がり屋根裏までついて行きました。
行った先には、いくつかのスポーツ用具と、中央に大きな模型が。そう、それは、総工費xxxxxxxxxxx円ともいわれた新家屋の模型でした。貴殿はうれしそうに、茶室、池、月見台、ボートハウスなどの説明をしてくださいました。笑顔で頬を赤く膨らませた貴殿は本当にすてきでした。


最後にいくつか質問をした後、私はどうしても握手がしたくなって右手を差し出しましたが、テニスで手を傷めたとかで、握手ができないんだとおっしゃいました。なので、私たちは左手で握手を交わしたんです。もう洗ってしまいましたが、目を瞑るとその感触が今でもよみがえります。

翌年、私はテレビ朝日の特番の取材でジャーナリストの山根一眞さんと共に米国現地にてインタビューを組ませていただきました。レッドウッドショアズ本社の中には立派なスタジオがあり、そこで対応いただきましたね。時間はわずか30分程度でしたが無事に終えられたときの達成感はそれまでの人生で味わったことのないほど大きなものでした。それと、ダウンタウンにあるご自宅にもお邪魔しました。広大なリビングから見えるのは立体シネマで眼前に迫るかのような金門橋と桑港湾。あんなに素敵な家は後にも先にも見たことがありません。ちなみに私はこのために1泊3日の海外出張を初めて体験しました。若かったですね。

2000年になると、新しい日本家屋の工事が進んできたので記録用撮影というやや緩やかなミッションをもって未完成のご自宅にお邪魔しました。まだ門もできていない段階でしたので、どこが入り口なのかとかもよくわからなかったわけですが、現地のスタッフの方々に案内をいただくなど、大変よくしていただきました。実は完成後にもお邪魔して、茶室のコーディネーターや庭師の方などの取材も敢行し、紹介ビデオを作った首謀者の一人はこの私です。その時にいただいた貴重な記念の帽子は、十年以上たった今でも愛用しています。本当にお世話になりました。

Mountainhomecap

テレビ東京のワールドビジネスサテライト(WBS)で前アンカーの小谷真生子さんとの邂逅も私が忘れられないお仕事の一つです。事前のブリーフィングが手前味噌ながら完璧だったこともあり、当時普段はほとんど外に出ることがなかった小谷さんを新宿のパークハイアットまでお招きし、30分のインタビューをやりましたね。取材後に記念撮影を撮ろうと二人の間に割り込んだのが私です。なお、写真は当時ニューヨーク帰りでWBSのディレクターだったYさんにお願いしてしまいました。勝手なことをしてすみませんでした。ちなみに内容はその日のトップニュースでしたよ。北京に開発センターを作るという。

また、桑港では何度かマスコミとのラウンドテーブルに記者と一緒に何度か参加しています。米NBCの超有名ジャーナリスト、トム・ブロコウと同席だったり、某シリコンバレー支局の方が、これだけは聞いてくれるなと内内にいわれていた内容をよりによって質問してくださり、私は冷や汗だくに。貴殿はにこやかに答えてくれたものの、あとでこっぴどく私は当時の上司に叱られたこととか。。。反省も学びもしています。

日本では、あるとき、xxビジネス誌が特集を組んでくれましたね。取材では貴殿は少し遅れて取材部屋に登場し、挨拶もそこそこにご自身の考えをダーーーっと喋り、ガハハ系の敏腕編集長とさながら格闘技のような時間を過ごしたのを覚えています。なお、記事の内容はとてもすばらしかったです。

某全国経済新聞が二度ほど国内で独占取材をしましたね。一人は私と同じ年の方。記者のくせに現役のアマチュアプロレスラーをいまでもやっています。「インチキ万歳!」(ビバ・フェイク!)を標語とした団体に所属している結構な人気者で、必殺技はちょっとアレなので言及することができませんが、すごく強いんです。もしよかったら覚えておいてください。リングでは覆面を被っていますが、それほど秘密でもないようです。ブランコ・xxxxっていいます。

もう一度は、わりと最近のことです。事実上、私と貴殿の最後のお仕事になってしまいましたが。場所は、憧れの京都。南禅寺のそばにあるウェスティン都ホテルで。イベントの間隙をぬって時間をもらったのでした。取材したのはIT業界広報なら知らない人はいない、有名論説委員殿です。私のような一介の広報マンにとっては重鎮同士のセッション。しかし、果敢に事前の調整を試みました。いろいろと双方に無理を申し上げたことを反省しています。そして、貴殿の時間に合わせるために、別会場から取材部屋までの移動を速やかに行うべく、私とその論説委員は走りに走りました。息切れしながら始まった取材は秀逸で、ジョークも飛び交うすばらしい時間でした。そのあとは、せっかくなので貴殿宅の何有荘にお邪魔してお茶とお菓子を遠州流にいただきました。

ずいぶんと長くなってしまいましたが、最後にもう一つ、思い出を書かせてください。

これは、私が今ここにいる理由の一つです。

サン・マイクロシステムズの買収表明をする前日、貴殿は日本のオフィスでタウンホール・ミーティングを開催していました。ビデオを撮影しながら私は最前列でお話を聞いていました。程なく質疑応答の時間になりましたので、意を決して手を挙げて聞きました。「あなたの、この会社の、究極の目標は何ですか?」と。

貴殿は答えてくれました。

「この会社のゴールは、TJワトソン時代のIBMのようにすることだ。すばらしい人、すばらしい技術、そしてすばらしい製品を提供して、世の中をちょっとだけ変化させていくんだ。」と。

*関連記事:[速報]オラクル、サン買収後のオラクルのビジョンを発表。「1960年のIBMと同じ」ソフトとハードの統合

あれから、オラクルはそうなりましたでしょうか。いえ、きっとなったのでしょう。だからこそ貴殿は現職から退くことを決めたのだと信じています。私は、あの時、貴殿の言葉を聴いて、IBMとはいったい何なのか。皆が目標とし、ライバル視し、出身者を称え、嬉しそうに、時には苦々しく語るIBMに私はとても興味を持ってしまいました。そして、私は今、ここにいます。貴殿に「So long!!」(また明日!)と言葉をかける間もなく、この日を迎えてしまったのが唯一の心残りです。

私が、いえ、多くの人々が尊敬するラリー。
貴殿は私たちの人生を変えた人です。
今までお疲れ様でした。

そして、ありがとうございました。

                                                       敬具

P.S. CEOを離れても、きっとこれからも多方面にご活躍をされることと信じております。私が申し上げることでもありませんが、どうかお体にお気をつけくださいますよう。

(2014年9月20日加筆)

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