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もしも洞察力があったなら……。

【iPS臨床関連の報道を受け】ジャーナリストの姿勢について一考

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Facebookで以下のようなコメントをしたら思いのほか反響があったので改めて共有してみたい。

今回のiPS臨床周りの報道は、一部マスコミの失態を被取材者に責任転嫁しすぎていると考えている。そもそもなぜ取り上げ、その後他紙が追従し、拡散していったのか。正しい情報源としての裏取りの徹底はどのようなものだったのか。

過ちがあったとしたら、当事者は、報道コンプライアンス、倫理、ジャーナリストとしての矜持を見直して、改め、社会にその宣言をするべきだろう。端的に、民放をはじめとしたメディアによる責任のなすりつけは、それを視聴、あるいは読んだ愚民がますますノーブレイナーになっていくというミスリードをおかしている。これらは個人的な意見であるが、そもそもこんなに連日報道するほどの大事ではないと考えているし、もとより社会的意義があるとは思えない。とても多くの人々の時間をムダ遣いしていると思う。バカバカしくはないだろうか。

かつて、英国メディアだった1843年創刊のThe News Of The Worldは、盗聴問題が仇となって2011年に廃刊してしまった。報道コンプライアンスとは、そのくらい厳しいものではないのだろうか。言論の自由のためにマスコミが言論のバリケードを敷くという戦後間もないころからの名残は、正しく機能してこそ価値を発揮する。これを期に、あるべき姿へのイノベーションを模索して欲しい。少なくとも、今回の件を学びの礎として欲しい。

少々うがった見方かもしれないが、有力メディアがじわじわとゴシップ化してきていることを大きな懸念として捉えている。ロンドンタイムズは昔、Fact is Holy、「事実は神聖である」、という趣旨の言葉を残していると元NHKの磯村氏から伺った。ジャーナリズムの矜持とは、まず、事実に忠実であることだと改めて思う。客観的な事実に即した「ファクト主義」と、誰かが言っていたことが重視される「言質主義」(げんちしゅぎ)。「ファクト主義」で築かれるのがサイエンスであり、「言質主義」で築かれるのはSFやオカルトの世界だ。(こう書くと、政治の世界はまるでオカルトだと言いたげだが、その話はまたの機会にしよう。)間違っても、サイエンスを「言質主義」で報道してはならない

一方、あまりいい言葉ではないが、「飛ばし」には個人的には寛大でいたいと思っている。それは、激しい報道合戦の結果、起こりうることだからだ。それよりも、「特落ち」を恐れて、事実を十分確認しないまま追従する他のメディアの体制にこそ批判をしたくなる。元になった「飛ばし」の情報源が間違っていた場合、取り返しがつかなくなるからだ。マスメディアの影響力はロングテール時代の今なお影響力は絶大である。このマスメディアに知らずして影響を受け、愚かな民意が形成されてしまうことを最も恐れているのだ。

Nobody is Perfect。人はミスをする。それは認めないと始まらない。しかし、周囲の専門家が付和雷同ではこれはもうどうしようもない。新たな価値を産むはずがない。矜持に忠実に考え、行動する。そして価値を築いていくことがジャーナリズムにも不可欠なのだ。


皆さんはどのようにお考えだろうか。

Dscf1928


(*全体を本投稿用に再構成しています。)

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