「落ちこぼれ」という言葉は死語? というかむしろ早く落ちこぼれないと?!
・経験上の話
博士後期過程に進学しようと最終的に決断したのは、
修士1年の夏前くらいだったような気がします。
今考えれば、博士に進学してしまうと、
就職がない(不利)だとかいうことを薄々感じてはいたものの、
強くは意識していなかったように思います。
微分積分思考法ができていませんね(笑)。
ただ、サークルの先輩なんかにいわせると、
「あー、大変だー」とか、
「体を壊してしまう人や精神的におかしくなってしまう人もいるみたいだから、気をつけな」
という主旨のことを言われたのを覚えています。
要は、博士後期課程の途中で落ちこぼれてしまうと非常にたちが悪いというのです。
・「落ちこぼれ」の意味合いの変化
「落ちこぼれ」って言葉は好きではないのですが、
この言葉はもう死語かなと思います。
「落ちこぼれ」って、学校の成績が悪い、
学校に馴染まない人の総称なんだと思いますが、
現在の就職超?氷河期が意味することは、
一昔前の、「いい学校に入って、いい会社に入ることが幸せの近道」という思想が妄想になってしまったことであり、
これからの時代はむしろ早く落ちこぼれないと
いけないのかなとも思います。
そういう意味で、「落ちこぼれ」という言葉は
むしろ良い意味?になるかもしれません。
学校に馴染まないってことは、全然、おかしなことだとは思いませんし、成績が思わしくないということもそれだけで否定すべきこととも思いません。賢さには比例しませんし、むしろ忍耐力には関係するでしょうか(日本の場合は)。
そもそも、個人差がある中で、同じ学年の全員が、一律に、同じ速さで同じように学んでいくことの方が全く不思議なことですね。
・いずれにしてもリスク?
今の時代は、もしかしたら、例えば、博士後期課程に進んで、夢を追いかける、やりたいことを仕事にするために取らなくてはならないリスクと、普通に就職口を探すリスクの差が縮んできたのかもしれません。
それくらい、学生と社会人とのギャップは大きいと思います。
・可能性の幅を広く
「いい学校に入って、いい会社に入ることが幸せの近道」であることを完全否定するつもりはありませんが、それは、数多く存在する可能性のうちの、ほんの一つでしかない というのが正解だと思います。
なまじ成績が良かったりすると、いい学校に入って、いい会社に入るという妄想?を追いかけてしまう。
可能性の幅としては、むしろ狭くなってしまっているかもしれません。
考えてみれば、イチロー選手や石川遼選手が、
プロになるための修行を就職活動の段階になって始めるってことは
考えられませんよね。
就職するってプロになる(銭を稼ぐ)ってことだと思いますので、
社会人になる直前になって、そのための活動を始めても遅いといえば遅いわけですね。
大学の卒業間際になって、野球の練習を始めても、
テストを受けて、プロ野球選手になるって、
可能性がゼロとはいいませんが、ほぼゼロだと思います。
・子供の頃から商売に触れらるといいですね
自宅が自営業者だったりすると、子供の頃から何となく、
商売(プロというもの)に触れていて、
銭を稼ぐことについて、肌で感じ取っているはずで、
そういうものがないと、就職って本来、
大変厳しいものであっても、何の不思議もありません。
進学って言うと聞こえはいいですが、
要は人生の道筋が決まっていないから
進学してしまう場合も少なくないと思います。
そう考えれば、(自主的に)落ちこぼれれば、
逆に多くの可能性が開けてくるということではないでしょうか。
ピンチはチャンスという言葉は、
ピンチになって、これまで向いていなかった新たな可能性へ目が向くということだと思います。
つまり、いい学校へ入って、いい会社に入る
ということ以外にも目が向くのではと思います。