やる気ゼロの課長が孤軍奮闘した理由
「成長なんて興味ない人、多いと思いますよ」
「大人は成長できるんですよ」というお話しをすると、こんなご意見がよく返ってきます。
確かに、
「オレってこんな人間だから」
「私はデキる人とは違うから」
「このやり方でやってきたんだ、これからもこのやり方でいいんだ!」
「特にもういいし...。何もできないよなぁ」
こんな風に思ってしまう人、多いですよね。
哲学者のニーチェは、こんな人たちを「末人(おしまいの人間たち)」と言っています。「おしまい」とは...。そこまで言わなくてもいいのに...と思っちゃいますよね。
末人は、社会から押しつけられた架空の価値観に縛られてしまい、やる気を失ってしまった人のこと。
たとえば、「男性は仕事、女性は家庭」「リーダーは男性の方が向いている」。こういう価値観に縛られると、バリバリ仕事のできる女性でも「どうせやってもムダ...」と、やる気が出てこないものです。男性も、女性が働くことを心から応援しようとは思わなくなります。
19世紀後半に生きたニーチェは、「次の2世紀(20〜21世紀)はニヒリズムの時代」と予言しています。ニヒリズムとは、「ニヒル(何も無い)」が語源。皆が虚無的になってやる気を失う時代ということです。平日は会社と自宅の往復、週末はゲーム。こんな人が増えていると言われていますが、100年以上前にニーチェはまさに言い当てています。
このような世界になっても、ニーチェは、前向きに生きる考え方を提案しています。「架空の価値観はいつか崩壊する」「事実はない、解釈のみがある」と言うのです。
でも、何を言っているか分かりにくいですよね。
要は、「既存の価値観にとらわれて一定の方向からばかり見るのではなく、物事を違う方向から見て解釈しましょうよ」ということです。
この解釈さえできれば、ニーチェは「どんな絶望的なことがあっても、同じことが何度も繰り返されても、受け入れることができる」と言います。これがニーチェの「永遠回帰」です。
でも、こう考えることはなかなか簡単なことではありません。「人はそんなに強くないよー」と、つい思ってしまいますよね。
でも私は、普通の人でもできる方法があると思います。そのヒントは、黒澤明監督の「生きる」という映画です。
市役所の仕事をやる気ゼロでこなしていた市民課長が、ある日胃がんで余命が短いことを知ります。課長は自暴自棄になって夜の街をさまよい、荒れた生活を送りますが、虚しさだけが残ります。しかしあるとき、課長は元部下の女性に会います。女性は市役所をやめて玩具を作っていました。女性の活き活きした姿を見た課長は、「自分にもまだできることがある」と気づきます。課長は、役所の幹部に働きかけ、やくざの脅しにも負けず、孤軍奮闘して住民のために公園を作ります。公園が完成した日、課長はブランコに揺られながら息を引き取るのです。
やる気ゼロで生きていた課長は、自分の人生の終わりを知り精神的な修羅場を経験しました。しかし修羅場をきっかけにして物事を違う方向から見て解釈することができるようになったのです。
「何をやってもムダ」という架空の価値観が崩壊したのです。
公園完成間近の日。課長が素晴らしい夕陽を眺めるシーンがあります。課長は、「今まで、夕陽がこんなにも綺麗だったなんて知らなかった」とつぶやくのです。
私たちの周りには、生きてて良かったと思えるような体験や仕事は、実は無数にあります。ただ既存の価値観に邪魔されて見えていないだけ。
「ピンチはチャンス」とも言われているのは、修羅場やピンチが価値観を変えるスイッチになるからです。これは精神的な価値観を変える体験。日常的な「気づき」にもそのスイッチはあると思います。
私は近視なのですが、初めてメガネをかけたときの世の中の見え方に驚いたことがあります。修羅場は、既存のメガネが壊れて、メガネをかけかえる機会でもあります。だから自分の周囲に降り注いでいる成長のチャンスに気がつくのです。
ニーチェが言うように、事実はありません。ただ解釈があるだけです。
【参考文献】
・F.W.ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上・下)』 氷上英廣訳,岩波文庫(1967年)
・F.W.ニーチェ『権力への意志』原祐訳,筑摩書房(1993年)
・F.W.ニーチェ『道徳の系譜学』中山元訳,光文社古典新訳文庫(2009年)