オルタナティブ・ブログ > 大人の成長研究所 >

ライフワークとしての学びを考えます。

専業主婦のわらしべ長者物語

»

浮世絵 町人(小).jpg

「わらしべ長者」という昔話があります。
貧乏な人が、偶然1本のわらしべ(藁)を手に進んでいくと、それがミカンや反物に変わり、最後は大きな屋敷と裕福な暮らしを手に入れるという内容です。
まるで「ポケモンGo」のモンスターを次々ゲットしていくのにも似ています。

このわらしべを「学び」や「気づき」にあてはめると、人の成長(変容)を言い表しているように思えます。
人は、偶然の出会いのように思われる学びから気づきを得て意識変容し、行動に至る。その繰り返しによって成長(変容)していくのです。

たとえば、専業主婦だった人が、ある学びをきっかけにして「働く必要ないと思ってたけど、私"やっぱり"働きたかったかも」と意識変容します。その主婦は「働くには武器が必要だ」と考え、専門性や資格を得るために学び始めます。専門性や資格を得て働き始めると、その職場でまた予想もしなかった新たな気づきがあり、「私"やっぱり"こっちの仕事がやりたかったかも」と意識変容し、学び始めるのです。

これを、教育学者の山澤和子氏は「確認の気づき」と言っています。
山澤氏は多くの人が「確認の気づき」で変容する事例を分析しています。たとえば、学びで気づきを得た主婦が、経験を活かして「子育て支援サークル」を立ち上げた後、社会福祉協議会に勤務し、男女共同参画センターの講師に成長する姿も紹介しています。

ポイントは「やっぱり」という言葉で確認すること。この「やっぱり」は、自分の前提や思い込みに対して何らかの違和感を感じていたことの確認です。
偶然のように思われる気づきは、無意識に持っていた違和感や問題意識にヒットしたということなのです。
先ほどの主婦であれば、働いているママ友を見てなんとなくモヤモヤしていた経験が違和感につながっていたかもしれません。

一見「え?これじゃあ、自分がないじゃないか」と思えます。
しかし、自分というものは最初からしっかりあるわけではなく、気づきと学びを重ねて「つくられていくもの」だと考えます。
神の創造物ではないかと思われるようなモーツァルトのような天才だったら才能を発揮してまっすぐ伸びていくのかもしれません。しかしほとんどの人は「確認の気づき」を得ながら、紆余曲折して成長(変容)していくのではないでしょうか。

この紆余曲折を表すとしたら、「わらしべ長者」のような美しい話しよりも、ビリヤード台で玉が激しく壁面にぶつかり、跳ね返りながら成長していくと言ったほうがしっくりくるかもしれません。

哲学者のジャン=ポール・サルトルは、「実存は本質に先立つ」と言います。

このことをサルトルはペーパーナイフの事例で説明しています。
職人は「ペーパーナイフがどのような製造方法でどのような用途があるか」、その「本質」を心得てペーパーナイフの実際の存在である「実存」をつくります。
だから、ペーパーナイフの場合は「本質が実存に先立つ」わけです。車でも本でも物は皆同じです。

一方、人間の場合、もし神が作ったのだとしたら...天賦の才が決まっているのだとしたら...ペーパーナイフと同じようになります。
しかし人間の場合はそうではなく、「『実存が本質に先立つところの存在』こそ人間である」とサルトルは主張します。
人間はまず実際に存在していて、自分という本質は自分自身でつくりあげるもの以外の何ものでもないということです。

自分はつくりあげるものなのです。
自分があるという思い込みは、自分の成長に歯止めをかけてしまいます。
自分の思い込みを乗り越えてこそ学び続け、気づきを得て、壁にぶつかりながら自分を成長(変容)させていくことができるのです。

【参考文献】
・山澤和子『女性の学びと意識変容』学文社(2015)
・ジャン=ポール・サルトル『実存主義とは何か』伊吹武彦 他訳 人文書院(1996)

Comment(0)