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ライフワークとしての学びを考えます。

話すとき目をそらしていて人から信用されるのだろうか

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日本の武道において「残心」という言葉があります。
技を終えた後、力を緩めていながらも相手に対しての集中は続いている状態のことです。 
これは自分の力を過信してはいけないという戒めであり、そして、フィニッシュではなく、参りましたの意思表示なく立ち上がって反撃してくる相手に対する準備であると言います。
 
「その人がどういう人か知りたかったらエレベーターが閉まる直前の表情を見ればよい」と教えていただいたことがあります。人は別れ際にその人の人となりが一番表れるのです。
ご縁あって企業に入ってのお仕事にうかがうと、企業の方というのは「お客様相手にこの道何十年。筋金入り営業のプロフェッショナル」のような方々がいらっしゃり、エレベーターにおいて別れの姿勢が美しいと思いました。
 
「残心」のように、分かれたあとも「あなたとのご縁に感謝しています」という心の余韻を慈しむ気持ちというのが必要なのだと思っています。
 
 
これは、人と正対するときも同じではないかと考えます。
 
自分の成長もままならない私が、有り難いことに人の成長を支援させていただくような仕事をしていると、「私は心から無条件にその方の成長を願っている」と口では言いながら、では実際はどうなのかと、常に思い知らされます。
 
教えていただく立場のとき、真剣な場で、先生がすぐに目をそらしたり、それどころか人の目を見て話さなかったりする態度をとられたりすると、少なからず不安な気持ちになってしまうことがあります。
また、チームを預かるリーダーが、普段は「私は部下を育てます」とおっしゃっていても、実際の現場で責任を回避して先に逃げてしまう姿を見ると、残念に思うことがあります。もし、仲間の前で恥をかくことになっても、その姿を見せたらいいのではないでしょうか。私の尊敬すべき上司にあたる方が、勇気をもって率先して「恥をかかれている」姿を拝見し、どんなにか力をいただけたことかと思います。
 
 
真剣な場において目をそらしてしまうのは、「耐えられなくなる」、「気持ちをそらしている」からだということに気がつきました。もし、常に目を見ていることが難しいようでも、大事なところではアイコンタクトをとるべきです。
 
口では「あなたのことを思っている」とおっしゃっていても、形はそうではない。
これは、相手に対して正対していると言えないのではないかと思います。
 
 
どんなにこちらがお伝えする立場といえども、相手の方は立派に社会で活躍されている。わざわざ人生の時間を使い熱意を持って感得されに来られている。偉いのは現場でやっている方々です。だから、教えてやろう、指導してやろう、などという思い上がった態度は正対とはほど遠いものでしょう。
 
まずは相手に対して敬意の念を持ち、心からの正対をすることが伝える立場として一番大事なことではないかと思っています。
その念があって初めて、形だけではない、「あなたの心聞き届けましたよ」、「あなたのお姿見届けましたよ」、「良き時間をいただけました。有り難うございました」、という「残心」を持つことができるのではないかと私は信じています。

素晴らしい方とお話ししていると、スーッと吸い込まれるようにこちらの目を見てこられます。そして、話し終わるときの目の離し方が温かい。その人が去ったあと、気高い香りの残るような、そんな残心を感じます。

私もいつか、そんな残心を持ってみたい。見果てぬ夢ですが、最近そのように思います。

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