「お前はダメだ」 人はそうあるべき姿として接することで変わることができる
私は、ごく一般的な会社員の家庭に育ちました。両親は音楽とは無縁。兄弟は3人で周りは男ばかりでしたので、男の子のように育ったと思います。だから、「なぜあなたがピアノをやっているの?」とよく人に聞かれます。
私は子供の頃にピアノの手ほどきをしてくださった先生がいます。
当時はがさつで品が良いとも言えず、才能のない私を、先生は心の底から「一人前のピアニストにしよう」と思って導いてくださいました。今それに応えられているかどうかは、はなはだ自信がありませんが、ご指導は真に魂からのもので、先生がいらっしゃらなかったらまったく今の私はありませんでした。私は先生を「第二の親」とさえ思っております。
そのレッスンは神通力とでもいえるようなものだったと、今思えばそのように感じます。
大変厳しい方で、怒った先生が部屋を出て行かれることもしょっちゅうでした。私はそのたびに恐ろしいのと情けないのとで、手足がガタガタと震えたのを覚えています。不器用で出来の悪い私のために出来るまで辛抱強く待たれ、また、まだ子供の私に対して何の躊躇もなく、「人間としてどうあるべきか」、「愛とは」、「過去の作曲家の生き様」そして、大人の見るような映画や本の話などもしてくださり、レッスンが1時間のものが2時間以上となることさえありました。
私と同年代のお嬢様がおられ、遅くなるレッスンに集中するためにわざわざお手伝いさんをお雇いになっていたほどです。
先生のレッスンは、「ダメだ」「ダメだ」との否定の連続でした。でもなぜ私がついていけたのか。それは、先生が私の可能性を心から信じて疑っていなかったところにあります。
本番で上手に弾けたときは、少女のように満面の笑みで喜んでくださり、私はただ先生に喜んでいただきたいために弾きました。
だから、私は小学校を休んでも、レッスンに行きたかった。
そこには、私を魂から信じてくださる方がいらっしゃるからです。
「凡庸な教師はただしゃべる。
少しましな教師は理解させようと説明する。
優れた教師は自らやってみせる。
偉大な教師は生徒の心に火を点ける」
19世紀のイギリスの教育学者、ウィリアム・アーサー・ワードの言葉 です。
先生は、生徒の心に火をつけました。
先生とのご縁は、私の生涯の宝でもあります。同時に人生の苦悩の始まりでもありました。音楽の道、とくにクラシックの世界は簡単なものではないことが分かってきました。
そしてこれは、「人生が私に何を期待しているのか」、という大きな問いの始まりでもあったと思っています。
私は、人間とは、こちらがどう取り扱うかで、相手が変わり導かれるのだということを信じます。
どんな人でも相手は自分の鏡なのです。
それを今、自分自身が出来ているのか。
先生のお取りになった命懸けの「否定法」は今の自分には難しいにしても、出来ないことを、上手くいかないことを、他人のせいにしていないか。自分のエゴで人の心に「ウエットブランケット」していないか。
そして、人の心に火を点けるということは、常に自分の心に火をともしていなくてはなりません。人生の荒波の中で、常に力を備え、満ちている、ということは至難の技だと思います。しかし、だからこそ「偉大な指導者」なのでしょう。
今、深く考えさせられることです。