遅刻をするということはそれだけですでに負けている
大事な仕事の前。
人と大事なお話しする前。
そんなとき、最近は事前に集中する時間を持つようになりました。
尊敬するある経営者の方から「常住坐臥」、そして「日常が修行である」、とお教えいただいたことが私にとっての心の転機となりました
私は宗教的な人間ではありませんし、立派な経営者でもありません。だから「猿真似」かもしれないけれど、形だけでもやってみようと思い立ちました。
短い時間でも、一人になって、感謝の気持ちを持って静かに手を合わせ呼吸を整える。
外出先においてふさわしいと思われる場はそんなに多くはありません。仕方なくトイレの個室に入ることもあります。
そうすることで、気持ちが静まって感受性が鋭くなり、直観できるようになります。
理由は分からないけれど「ピンとくる」ということがあります。
これがなぜか当たっていて、仕事の上の危険を回避したことが何度かありました。
やはり、心を整える時間を持たずに、あわてて大事な物事に対すると、たいていは結果が良くありません。
失言や、的外れな回答をしてしまったり、感情がコントロールできなくなってしまうこともあります。
だから遅刻は一番よくありません。
余裕のない状態で場に飛び込むことは、それだけですでに「負け」なのです。
もし相手がいたとして、その方はすでに心が落ち着いて深く集中していたら、そこで勝負はついているのだと思います。
私は、自分が未熟で力がないのが分かっているので、出来る限り遅刻はしないようにしています。
特に、悩む方にお会いしてお話しを傾聴するときというのは、何も言わなくても、心を寄り添わせて、共鳴させる作業が大変体力を使います。
直観ですが、語っておられる様々な真実とは違うことが見えてくるのを感じることがあります。
人はなかなか本心を話しません。そして、実は本心が分からないままお話しなさっていることがあります。
こういうとき、こちらがどんな言葉を語るか、というのはとても難しいと思います。
安易な言葉で逃げたくなる自分をいなしながら、
ただ聴くだけではなく、待つ。
その方にとって必要としている言葉が降りてくるのを待つ。
懸命に心を整え臨んだとしても、自分にとってのベストだったのか恥じるときもあります。そして、ぐったりと疲れてしまい自分自身にカウンセリングが必要ではないかと思う時もあります。自分の魂の弱さを感じるときです。
心が正対するとは、いかに優しい気持ちを持ってしても、きしむような音をたてる心の格闘のような気がしています。
そのために、集中し心を整える時間が必要なのだと思っています。