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ライフワークとしての学びを考えます。

ベートーヴェンをぶん殴る男

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人生には命を懸けなくてはいけない瞬間というのがある。
 
旧ソ連の政策上の問題で、西側に出ることが出来なかった「幻のピアニスト」と言われていたスビャトスラフ・ヒリテル(1915~1997)、45歳で満を持してのニューヨークデビュー。
そのとき弾かれた、ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ第23番「熱情」。
それを、最近お亡くなりになった日本最高の音楽評論家、吉田秀和さんは「ベートーヴェン自身のイマジネーションを超えている演奏」と評しました。
 
一世一代の勝負をかけたそのライブ録音は、首の皮一枚やっと繋がっているかのような、精神をギリギリまで追いこむ暴走寸前の演奏。
アメリカでは、大絶賛の嵐だったのですが、ミスタッチも多く、リヒテルはアメリカツアーの出来に満足していませんでした。
 
『評価に値しない』
 
と、後につまらなそうに語っています。
 
それでは、本日はその演奏、ベートーヴェンの熱情ソナタより、音の良い同時期のスタジオ録音で第3楽章をお聴きいただきましょうか。
 

 
熱情ソナタは3つの楽章から成る作品です。
穏やかで深い第2楽章が静かに終わり、まったく途切れなくいきなり第3楽章に突入するという構成になっています。
 
その第3楽章の出だし。
 
濃霧の山岳地帯を歩き森林限界かなと思われた瞬間、当然目の前にゴツリとした大岩が出現し、まるで「ここから先は入ってはならぬ」という大自然の声のように感じたことがありますが、まさにそのような音。
リヒテルの音は、いついかなるときでも、どんなに激しくても「叫ばない」。普通のピアニストなら絶叫してしまうような場面でも、マグマのような底力で衝撃を食らわします。
 
そしてなんという火を吹くようなテンポの速さ。Allegro ma non troppo(アレグロ・マ・ノン・トロッポ=速く、しかし急ぎすぎずに)という指示など全く無視で、もう最初からトップギアに入れているのが分かります。
4つの音を一握りで鷲づかみするように弾いていくリヒテル独特の指さばきで、どす黒く渦巻く奈落の底に引きずりこまれるようなディミヌエンド(だんだん弱く)のあと、0:16、「リヒテルの熱情」、気合の演奏が始まります。
 
0:28、「タターン、タターン」というテーマ、まるで逃れられない宿命を意味するように響いてきます。0:29同じテーマを高音で繰り返しますがそれはリヒテルの心の中で響いている音でしょうか。クラシックでありがちなお上品な演奏とは縁遠い、その「バサリ」と荒々しく切ったメロディの切り口から熱い血潮が吹き出るようです。
0:49、ここは左手の伴奏がとても弾き難い。だからこの3楽章をあまり速いテンポで飛ばすと、ここが弾けなくなってしまうのが嫌なのです。しかし、リヒテルはブルドーザーのように一気に弾き切ってしまいます。かえってゴツゴツ弾いていることで、この作品の味が出ているともいえるところが凄い。
1:33から、速いテンポながら、転調の憂いをおびた音色のニュアンスが心にしのびこんできます。リヒテルは、実はテクニックを前面に押し出して弾くタイプではなく、どんな手が厳しい場所でも必ずストーリー性を持って表現してくる。
1:39の「シ~ラ~シ~」と歌う旋律も、低いうめき声と訴えるような高い声が対話しているようです。
1:44でも、右手のメロディーが、苦難を乗り越えろとでもいうようにあちこちで呼応しているのが分かります。
2:03からの左手の音と右手のオクターブが、たけり狂った阿修羅の足音のように聴こえます。この左手の低音、実際弾くとなかなか旋律として浮き上がらなくて困るのですが、リヒテルの場合くっきりと際立ち横に繋がって聴こえてくるのです。
そして2:11と2:14の一瞬のなんという「間」。いや、「魔」とでも言いたくなってしまうような緊張感。普通ならここまで昂ぶっていたら上滑りするところです。リヒテルは強靭な精神力で踏みとどまる。そして、その後の流れるような幻想的な音。どこかに連れ去られそうなほどの神秘的な静けさ。
4:22では、2:03と同じパッセージが繰り返されますが、よく比較してください。一回目、あそこまで凄まじくやっておいて、さらに上をいくのです。魂をおびやかすようにさらに迫ってくるその足音。この人に限界はないのだろうかと思ってしまいます。
 
5:53から、今までトップギアに入っていたと思っていたのが、さらにそこを超えてくるのが手に取るように分かります。完全にリミッターが切れている。
5:57の和音が決まったあと、6:11からが息も止まらんばかりの最後の正念場。本当の喧嘩のように大きなこぶしで鍵盤を「ぶん殴る」リヒテルがいます。それは、2回、さらに3回、4回、と繰り返される。6:32の左手の嵐に乗って、一気呵成に曲は巨大なエネルギーで断ち切られるように終わります。
  
音はあまりよくありませんが、こちらのニューヨークカーネギーホールでのライブは、リヒテル決死の覚悟での息遣いを伝えた名演奏。過度の緊張のため思い通りにいってないところや、興奮のあまり間のとり方が早いところ、上滑りするところや、音を思い切り外しているところも見られますが、音楽の感動にはミスなどなんの関係もないことがよくわかります。どうぞこちらも聞いてみてください。

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