「あなたのために良かれと思って」が「私のため」ではないかという危うさ
志と理想を持って貢献する。
愛を持って献身する。
マザー・テレサのように、すべての方に対して無条件の愛を捧げられた方の人生を見ると、あまりにも尊く偉大で言葉がありません。
知り合いの指導者が、理由あって、ある学生の団体に対して自分の報酬を省みず、ほぼボランティアで指導を行っていました。
本来は、プロであるなら報酬を出せないのだったら指導はお断りすべきなのだと思いましたが、「そこには歴史あり」で、どうしても必要なことだったのだということは深く共感できましたし、立派な行いだと思っていました。
そしてあるとき相談を受けたのです。
「負担だって言われたんだよ・・・。僕は未来ある人達にぜひ良い音楽をしてもらいたい。人生を豊かにしてもらいたい。そして、廃れてしまうかもしれない日本の音楽文化である合唱音楽を後世に引き継いでもらいたい。その思いでそうさせてもらったつもりだった。」
厳しい。そして難しい。負担と思う気持ちもあるかもしれない。そう思いました。
私も、ボランティアの気持ちで行っていたことが、相手に対してかなりの負荷をかけていた経験があり、「あなたは私たちに負担を負わせている」と言われたときの愕然とした気持ちを思い出しました。
言われた直後は情けないことに心の中で憤りさえ感じてしまったのですが、今思えばその方も、さぞかし言い難いことをおっしゃっていだいたのです。言うときも相当お辛かったのではないかと想像します。
そのとき、自分が心の奥底で、「感謝されたい」「良い人の自分を褒められたい」という気持ちで行っていないか?そして、恐ろしいことですが、「私の思い通りになりなさい」という深いエゴが叫んでいないか?と自分を見つめなおしました。
その方は、私が自分を見つめなおすきっかけを与えてくださったのです。「良かれと思って」という自分本位の思い上がった行動を教えてくださった。有り難いことをおっしゃっていただけたのだ、と思いました。
そして、現実的な問題としては「説明不足」があると思いました。
「良いことをしているのだから当然伝わっている。」とこちらが思っていても、相手はどのように受け取っているか実際は分からないのです。かえって「苦しい」と感じておられるかもしれないのです。
「これは良いことで、私に見返りはない」「あなたたちに負担はない」「自分が責任をとる」ということを率直に話し、説明する。そして「自分はあなたたちに感謝している」という気持ちを伝える。
エゴか解決できていて人間力のある方であれば、何も言わなくとも行動するだけで周囲の人達が納得するのですが、しかしそうでない場合、やはり「ことば」を尽くす必要があるのだと実感として思いました。
奉仕しているのだから許され感謝されるということにはならないのです。
自分が「愛のある行動をしている」と思っていても、相手にとってはしんどくて重過ぎることがある。
「良かれと思って」「あなたのためを思って」。それはもしかしたら「私のため」かもしれないという危うさ。「善意」という病。
自分の「良い」は絶対的に正しいわけではなく、楽なことではありませんが、間違っているかもしれないということをいつも意識するべきかもしれません。