「いくら殺されてもまた我々は産む」 血の連鎖が仕事を変えた
私はなぜこの仕事をしているのか?
幼い頃から音楽教育を受け、先生に言われるまま、導かれるままにやってきた。
途中挫折もあった。でも、いつの間にかやはり音楽に戻っている自分がいる。
「どうしても、何がなんでもやらなくてはならない」
という信念があってやってきたわけではない。
これという思想も哲学もないし、世の中を変えようという志もありませんでした。
しかし、人とのご縁やめぐり合わせが人生変をえることもあるのですね。
私は、指揮者の先生や合唱との出会いが、音楽を皆さんに伝えるという自分の役割を見つける原体験となりました。
「日経Woman5月号」で、キャスターの長野智子さんの「妹たちへ」という記事を読み、人生における使命を定めた瞬間を見る思いがしました。
長野さんは、幸福な時代に平凡に育って、「先輩キャスターの皆さんが抱いているよう『怒り』が決定的に欠けている」、報道キャスターの資格があるのか、とコンプレックスに悩んでいたと言います。
しかし、長野さんが「ザ・スクープ」のキャスターを務めて1年後、世界を震撼させる事件が起こりました。「9・11」です。当時の上司、鳥越俊太郎さんは「報道が同じ視点のものしかない。長野さん、このまま中東に行って」と指示します。
・・・・・(以下引用)・・・・・
パレスチナ自治区は、ピカピカのユダヤ人入植地と、ぼろぼろのパレスチナ自治区が隣接し、道を挟んでパレスチナの子供が投石し、それに対してイスラエル軍の戦車が発砲。日常的に多くの命が失われる状況が繰り広げられていました。パレスチナ自治区にいた貧しい少年は「自分が最後の一人になっても戦う」と言い、女性達は「パレスチナ人がいくら殺されてもまた我々は産む」と叫びます。取材をした私は日本に向けてこう伝えました。「アメリカが報復しても、血の連鎖にしかならない」
それは日本でアメリカ視点のニュースを見ていただけなら絶対に言えなかった言葉だったと思います。私にしか伝えられないこともあるかもしれない、と初めて手ごたえを感じた経験でした。20代で報道を志してから、居場所を見つけるまで20年以上かかりました。
・・・・・(以上引用)・・・・・
悩んでいたとき、田丸美寿々さんから言われた「現場に立ち続ければ長野にしか伝えられないことはいつか出てくる」という言葉通りになったのです。
中東での強烈な出来事が、長野さんの仕事への原体験となったのだと思います。
記事には書かれていませんでしたが、人生の岐路に立ったとき、お仕事で迷われるようなとき、厳しい状況になっとき、パレスチナの子供たちの、そして女性たちの顔が思い浮かぶのではないかと想像します。
素晴らしい仕事をなさる方というのは、だいたいにおいて原体験をお持ちです。長野さんのような劇的なものでなくとも誰しもあるのではないかと思います。
私は、判断に迷ったときは、自分の原体験を思い浮かべます。
そうすると力がわいてくる。へこたれない。
弱き方々の叫び。
たった一人の人への思い。
その思いを胸に抱き続けて仕事を続けていきたい。
そう思います。