なぜレストランで不味かったと言わないのか 人はなぜ匿名で酷評するのか
演奏会などを行うとき、私は可能な限りお客様にアンケートをお願いしています。
せっかくお時間をいただき、足をお運びくださり、その後にお手数をおかけしてしまうのは承知なのですが、それでも、今後より良いパフォーマンスをしていくために、アンケートは宝物のように感じます。
頂戴したアンケートを読んでいて、いつも感じることがあります。
アンケートのほとんどが良かったというご意見をいただきます。
褒めていただけるのはとても嬉しく、大変有り難いことなのですが、「良くなかった」、または、「普通だった」、と感じた方はほんとうに少数しかいただけません。
人はいろいろな感じ方があって良いと思っていますので、良くなかったご意見もいただいてみたいのですが、なかなかありません。
なぜか?
考えてみると、例えば、レストランに入ったとき「う~ん」と思ったら、ほとんどの方は、わざわざ「不味いですよ」とはあまり言いません。美味しいと思ったら「美味しかったですよ」と言います。
なので、アンケートを書いてくださる方は、ほとんどがレストランで美味しかったお客さんと一緒なのだと思います。
良くない場合はわざわざ書かずに、静かに去っていく。そして二度と訪れない。
しかし、ごくたまに、わざわざ「良くなかった」と書いてくださる方がおられます。
的を得ている場合もあります。
そのときは、言い難いことをおっしゃっていただけた。有り難い、と思います。
しかし、そうでないときもある。
「なぜこの方はこのように書かれたのか」
自分のソロの演奏会において、ある匿名の方から、目を覆いたくなるような酷評をいただいたことがあります。知りあいが「客観的に見てもいくらなんでもここまでは酷くない」というほどの内容でした。
直感ですが、文章をみて、そう書かれる心当たりがありました。
きっと、その方も苦しんでおられるのではないかと思いました。匿名や偽名を使って「違った自分」にならなくては言えないほどの何かに対する怒り。そして、そこから、どうしても人生の深い痛みや悲しみを感じてしまう。
「私を認めなさい」という心の声が聞こえてくるのです。
起こることは必ず意味がある。
そのきっかけを与えたのは自分だと思いました。これは、「自分の行動を見直せ」という何かの声ではないかと感じました。
私自身は、匿名や偽名を使ったことはありません。ブログや講評などをする場合のほとんどは、良かったことやお勧めしたいこと、どうしても訴えたいことを中心にお伝えしています。
しかし、もし万が一そうではないことを伝える場合。
そこに何か意味を持たなくてはならないと思っています。
余程の深い覚悟があって書くことだと考えています。
それはいつか必ず自分に戻ってくる。そういう覚悟です。