新社会人に捧げる応援歌 「UNCONDON」
天才少女と騒がれていたヴァイオリニストがいました。
数々のコンクールを最年少で入賞につぐ入賞。
しかし、このごろ名前を聞きません。
彼女を良く知る方の話によると、ヨーロッパに渡り、自分より才能のある人たちが大勢いることを知り、絶望してヴァイオリンを暖炉にくべてしまい、彼女もヴァイオリンをやめてしまったのだそうです。
なんということでしょう・・・。
下世話な話かもしれませんが、きっと一丁で都心の高級マンションが買えてしまうような名器だと思います。
やめることはないんじゃない?やめるにしても楽器は売ればよかったのでは?もったいない。と考えがちですが、彼女の苦悩はそんなものではなかったはず。
愛する楽器、苦難を共にしてきた同志のような楽器が人の手に渡るくらいならば、自分の手で消してしまったほうがよいと思ったのではないでしょうか。
そこまでの思いいれがなかったなら、あそこまでの演奏が出来るわけがない。
楽器の死。
と同時に「音楽家の自分も一度死んだ。」と。
私は、そう解釈しました。
大宅壮一ノンフィクション賞も受賞している、ピアニストの中村紘子さんがおっしゃっていました。
「むしろ一等を取らなかった人の方が何十年も経って活躍しているケースが多いんです。才能があることと、それを持続させていくこととは、またちょっと違って、キャリアを断念せざるを得ない友達もずいぶんいました」
キャリアを持続させていくこと。
これには「運・根・鈍」(うんこんどん)が必要なのではないかと思いました。
「運気」も必要。
「根性」も必要。
そして「鈍感」。
「鈍くさい」ことも、もっと必要ではないかと思います。
ドイツでは、「牛の歩み」とよく言われます。
10代の頃はなんだかパッとせず周囲もあまりチヤホヤしなかったのに、10年後20年後には深みや奥行きが増して、素晴らしくいい味を出しているというのは、あちらではよくあることなのだそうです。
天才少女だったフジコ・ヘミングさんは、若くして挫折を味わいましたが、コツコツと弾き続けた、まさに「運・根・鈍」の方だと私は思います。
途中己のエゴやコンプレックスに押しつぶされそうになるかもしれません。
そういうとき、心を空にし、行じてみること。
周囲への感謝をもって続けてみること。それがあるとき「運気」を引き寄せる。
長い本物への道のりはそこにあるのだと考えます。