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ライフワークとしての学びを考えます。

あいつら「フリヨク」がねえな 無名の人になぜそんなすごいことができたのか?

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なぜあの人がこんな有名になってしまったのだろう?
そう思うことがしばしあります。
 
指揮者の小澤征爾さんについて、「小澤征爾くらい耳のいい人はいっぱいいる」と師匠の斎藤秀雄さんはおっしゃっていたそうです。
では、なぜ小澤さんはあそこまで凄くなったのか。
村上春樹さんとの対談「小澤征爾さんと、音楽について話をする」の中で、そのワケを小澤さん自ら語っていましたので、引用してご紹介します。
 
村上さんは小澤さんに「一人の無名の青年になぜそんなすごいことができたんでしょうか?」と問います。

     ・・・・・(以下引用)・・・・・
 
「本番のときにどう振るかなんてほとんどどうでもいいんです。(中略)練習のときにオーケストラを仕込むための棒の振り方というのがある。それが一番大事なんです。僕はそれを斎藤先生から教わりました。そういうところはね、僕の場合最初からまったくぶれがないです。」
 
「僕は高校4年、大学3年行ってるんです。というのは高校一年生を成城で一度、桐朋で一度やってるから。そのとき桐朋学園の音楽科がまだできていなかったんで出来るまで一年待ったんです。それから大学に二年半行って・・・。それでその七年ほどのあいだずっと、そこのオーケストラの指揮をしていた。ベルリンとかニューヨークを指揮する前に、それだけの経験をしっかり積んでいたわけです。普通の指揮者でそんな経験をしている人はまずないですよ。斎藤先生はそれをやれば絶対に良いと考えていたのでしょうね。」
 
「言葉がろくに出来なくても、外国でオーケストラに自分の意志を、自分のやりたいことをしっかり伝えられたのは、やはりそれだけの指揮の技術ができていたからです。」
 
     ・・・・・(以上引用)・・・・・

小澤さんは、斎藤先生の方針で10代の終わりには、実際のオケを指揮しながらその技術を身につけていたのです。大抵の指揮者は、大学ではピアノを相手に指揮のレッスンをし、卒業しても簡単にオーケストラなどは振れなくて、さんざん苦労します。
 
私がお仕事をご一緒していた指揮者のY先生は、「当時、"小澤征爾がウラヤマシーッ!"て思ったね。実際のオケを相手にあの桐朋で振れいる。僕なんか音大行く金ないし、中学の教員やりながらレッスン通って渡邊先生のピアノで棒振ってた。その後初めてプロのオケ振ったときはもう全然違う。ピアノと違って音が遅れて出てくるんだから。」
その後、手兵の合唱団を組織し、プロのオケと合唱つきのオーケストラ作品日本初演のほとんどを手がけられたのですが、「最初は大変だったよ」と笑いながら話していました。
 
指揮者の岩城宏之さんも、芸大の学生時代、「ピアノに向かって指揮するのはもうウンザリだった。何が何でも本当の指揮がしたかった。学校では他にかなりの人数が指揮を習っていたが、我々(山本直純)に言わすと『あいつらフリヨクがねえな』」と、器楽の学生さんたちにモリソバをおごってオーケストラを組織し、指揮をしていたと、著書「棒ふりのカフェテラス」に書いています。「フリヨク」とは岩城さんと山本さんが作った言葉で「指揮したい欲」のこと。
 
何が何でもやりたい「欲」。
その「欲」を隠さない。
 
小澤さんも、中学3年生から指揮をしていたとおっしゃっていました。斎藤先生との素晴らしいご縁や、桐朋学園での修行もあったと思います。しかし、ご自分が強い「フリヨク」を持っていたからこそ大きな夢が実現したのではないでしょうか。
 
私は、この「欲」とは周囲の人が反対しても押し切るほどの「欲」だと思っています。
 
「欲」は、一般的にあまり美しい言葉ではありませんね。
しかし、東洋のタオイズムにおいて「陽」極まれば「陰」、「陰」極まれば「陽」。
欲も突き抜ければ対極に行く。
 
自分の欲を否定せず極めてみたいものです。

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