表現とは指揮者に言われてすることではない それぞれが感じることです
今は亡き岩城宏之さんは、プロの合唱団東京混声合唱団を指揮していらしたとき、林光さん編曲による『日本抒情歌集』にある「曼珠沙華」がとても好きだったそうです
原曲は山田耕筰作曲、北原白秋作詞の日本歌曲です。
私はこの作品を今回初めて知りましたが、シューベルトの歌曲に肩を並べるほどの品格の高さ、芸術性の深さに圧倒されっぱなしです。
3月17日は、混声合唱団コール・リバティストに、林先生や岩城先生とずっと演奏を共にしていらした秋島先生にいらしていただきました。
合唱は、指揮者がいて音楽的な指示を行うのが通常ですが、この「曼珠沙華」はそれで歌っていたのでは間に合いません。
幼くして亡くなった子の墓参りに来る母親。
墓には、血のような真っ赤なヒガンバナが、死んだ子の年の数だけ咲いていた。
母親は、「けふ(今日)もたおり(墓参り)にきたわいな」と歌い、そして続いてもう一度同じ歌詞を繰り返す。
このとき「なぜ繰り返すのか?と感じなくてはならない。」
と先生はおっしゃいます。
二回目は、どう表現するのか?
「今日も来たよ・・・」と亡き子に話しかけているのか?
それとも、それは自分自身に話しかけているのか?
音楽において、同じことを二回繰り返すということは必ず意味があります。
1回目と2回目は同じにしちゃいけない。
強く言うということではない。2回目の方が内容が濃くなるのです。
ただ、それは指揮者に言われてすることではない。
どのような表現がふさわしいのか。
それは一人一人自分が感じることなのです。
合唱は指揮者がいて、集団音楽なのだから全員の気持ちを一つにあわせなくてはいけない。それも一つある。
しかし、それだけでは足りない。
音楽が深すぎて「みんなで一緒に」では音楽にならない作品もあるのです。
深く感じれば、一人だけ間違ったということにはなりません。
不思議と全体が合ってきます。
それぞれの感受性と創造性を全開にして表現していきたいですね。