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ライフワークとしての学びを考えます。

無意識の領域が働きかけるとき

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芥川龍之介の「杜子春」という作品があります。
 
洛陽の門の下に杜子春という若者が立っていました。そこに仙人が現れます。杜子春は仙人の力よって富を手に入れますが、放蕩の限りを尽くし、すぐに無一文に戻ってしまいます。お金がなくなると波がひくように人が去っていく。杜子春は人の世に絶望し、仙人に「仙人になりたいので仙術を教えてほしい」と願い出ます。仙人は「お前を仙人にしてやる。仙人になりたければ、これからどんなことがあっても声を立ててはいけないぞ」と言います。ありとあらゆる地獄のような出来事が起こりますが、杜子春はじっと座りつづけ声一つ立てません。
 
しかし、若者の母親が出てきて鬼に殺されそうになります。
杜子春はめった打ちにされながらも子を思う母の気持ちを知り、思わず「お母さん!」と声をあげ、その瞬間現実世界に戻されます。気がつけば、元いた洛陽の門の下。今までのはすべて仙人が見せていた幻だったのです。仙人は「もし、母親が殺されても声をたてなければ、お前を殺そうと思っていたぞ。」と言い、去っていきます。
 
中国の昔話を、芥川龍之介流の味付けでアレンジした作品です。
 
この作品において興味深く思うのは、「どんなことにも声をあげなかった杜子春が、母親に対しては声をあげてしまった」ところです。
 
これは、母への愛という素朴なものではない。
意志や努力によって夢をつかみかけた最後詰めが大事だ、という教育的なものでもない。 
それだけでは解釈できないものだと思っています。
 
あと一歩、永遠の命、思い通りになる仙人術が手に入る。夢が自分のものになる。
それと引き換えにしてもよいという無意識の叫び。
 
苦難苦行を意志の力で乗り越えたところまでは、意識の領域。
そして、「お母さん!」と声をあげたところからは無意識の領域で行われたことなのです。
 
究極まで追い詰められたとき、そのときこそ、無意識の領域が動き出す。
そんな瞬間をみる思いがしました。

苦しくてどうにもならない瞬間に、どうしてかわからないけれど何かがひらめいたりする。意志とは関係なく体がうごいたりする。

「その声」に従ってもよいのではないかと思えます。

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