絶対にリハーサルをやりすぎてはいけない
伴奏ピアニストが一番気を遣う楽器は何か?
と問われれば、「それは声楽家」とお答えします。
声楽家ほど繊細で、本番の出来不出来の差が大きいものもありません。
もちろん、もともと力のある方であれば、少々調子が良くない場合でも、一定のレベルは維持されるものです。しかし、普段良く聴いている人であれば、「あの声はどうしちゃったの?」というほどのことも、よくあるのです。
ピアニストには、声楽専門の伴奏者というものがいるほどで、リート伴奏者とも言われています。声楽への造詣が深く、彼らの特性やコンディションを理解し、音色からタイミングから、言葉と息づかいと繊細な声に寄り添う技術が必要で、時には声楽家の声の調子を管理するボイストレーナーのような特殊な能力も求められます。だから、ピアノのほかに声楽も歌える人が多いのですよね。
日本を代表するソプラノ、鮫島有美子さんはの旦那様はヘルームト・ドイチュ、メゾ・ソプラノの白井光子さんの元夫でパートナーはヘルムート・ヘルと、共に名伴奏者であるというのもうなずけるのです。
声楽の伴奏者は、「どのようにして彼らに本番の舞台で最高の歌を歌ってもらうか」ということを一番に考えなくてはなりません。
自分のピアノパートを心配している暇はありません。
まず、当日のリハーサル。
ここで「今日は調子がいい」と思っても、絶対に歌わせすぎてはいけません。
なぜなら「そこで終わってしまう」からです。
本番の、お客さんが入ったときに、その歌手が現在出し得る最高の声を聴かせることが最大の目的。
他の器楽もそういう面はありますが、特に歌の場合は、「その日一番素晴らしい声は一度しか出ない」と肝に銘じなくてはいけません。
若くて経験の少ない歌手ほど、リハーサルで何度も難しいところを歌いたがります。「もしかして今日こそ出ないのではないか」という不安でいっぱいになり、歌えることを確認したくなるのですね。
そんなときは、「ハイ、もうこれでいいよ。大丈夫、大丈夫。いつも出てるんだから心配ないよ」と、リハーサルを適当なところで打ち切ります。
いなし方と、その方の声を聴きながら打ち切るタイミングの絶妙な伴奏者は達人の域です。
もしこれができないようだったらば、あらかじめステージマネージャーと打ち合わせをしておき、リハーサル時間を短くセットしておくことをする場合もあります。それぐらい、リハーサルでの歌わせすぎは良くないのです。
そして、本番前。必ず声楽家より先に舞台袖に入って待機。
だいたい10分前くらいに声楽家が袖にやってくると、「そのドレス素敵」とか「ヘアスタイルがキマってる」と「褒め」に入ります。誤解なきように書いておきますが、これは決して”ヨイショ”ではありません。
とにかく、褒めて気分をもり上げていただく。声ほど気持ちがダイレクトに現れるものはないからです。
そこからは、少し関係ない話題を向けて、リラックスしてもらいます。どうしても歌詞の暗譜を心配したり、高音が出ないのではないかと、気になっていることが多いのですが、そんなことを心配しても良く歌えることはありません。
本当に直前の2~3分前。ここで初めて静かに集中する時間を持つ。
そしてにこやかに舞台へ。という流れです。
それでも、いつもより硬くなり声の出が悪いことがありますが、リハーサルで歌わせすぎて声が落ちてしまい大失敗するようなことはまずありません。
そこまで、いかに「大事に大事に持っていくか」というのが、実は伴奏ピアニストの腕の見せどころでもあります。
歌というものは、すべて中でも最もエモーショナルであり、神より授りし楽器。舞台裏では様々な工夫があるのですよね。