オルタナティブ・ブログ > 大人の成長研究所 >

ライフワークとしての学びを考えます。

こんな仲の悪い合唱とピアノはない

»

歌曲の伴奏とは、自分が歌手より絶対に前に出てはいけません。
 
ピアニストで尊敬しない者はいないとまで言われている、歴史的大巨匠スビャトスラフ・リヒテルが、名バリトン歌手フィッシャー・ディースカウと共演したときの合わせ稽古の映像では、ディースカウはあのリヒテルに対して「歌より前に出ないで!」と激しく指示していました。それほどデリケートなものなのですね。
 
弦楽器など器楽の伴奏ですと、「丁々発止のやりとり」のような場面もあり、作曲家の方はピアニストが前に出るような出番も多いように書いてくれています。
 
ピアノという一人でオーケストラの音を一人で弾いてしまうような楽器、ある意味エゴの強い楽器とも言えるものを扱ってきたピアニストという人種が行う、歌曲伴奏の所業は、「支える喜び」のようなものを感じつつ弾く境地のようなものであると感じています。
 
歌曲からさらに合唱の伴奏ともなると、今度は「縁の下の力持ち」のような技量が求められます。
 
だから私は歌曲の伴奏から、支える喜びと感謝を学びました。
 
2012年2月11日合唱団コール・リバティストにマエストロをお招きしての稽古を行いました。マエストロとは本番を指揮する指揮者のことを言います。
 
この日は、林光「日本抒情歌集」より「早春賦」と「曼珠沙華」を歌いました。
 
「早春賦」はモーツアルト、最後のピアノ協奏曲第27番変ロ長調K595の第3楽章にそっくりでもあります。やはり良いメロディというものは受け継がれていくものなのですね。
 
林さんはそこに着眼されたのでしょう。早春賦は、合唱とピアノの「ピアノ協奏曲」のような粋な作品に仕上がっています。
 
マエストロは元々、東混(プロの合唱団東京混声合唱団)のメンバーでもあり、林光さんとは何度も共演されています。
当然「日本抒情歌集」も演奏されており「早春賦」は特に印象的だったそうです。
 
合唱だけのアカペラで始まり、それをじっと待っていたピアノが間奏を弾き出します。
「ここを林先生は、合唱団のテンポと打って変わって自由な速さで勝手に弾き始めた。まるで最初からソロであったかのように。そして面白いのが、またもう一度合唱だけのアカペラになるのだけでど、そこを合唱団はピアノの速さを無視して、ゆっくりのテンポで普通に歌う。"こんな仲の悪い合唱とピアノはない"というくらいに、東混は東混で普通に歌い、林先生は勝手に弾く。それを押し通す。合唱曲なのに完全にピアノソロというイメージで弾くという、この面白さ」
 
そして、もう一ヵ所、楽譜に「カデンツァ」とだけ記載され、何も書かれていない場所があります。
そこは、ピアニストが自分流にアドリブを効かせて弾く、まるでモーツァルトのピアノ協奏曲の「カデンツァ」のような場面なのです。
 
「合唱の伴奏」という常識を打ち破る、林光さんのなんというイマジネーション。
今は亡き林光さんのニコニコとした顔が思い浮かんでしまいます。
 
「曼珠沙華」も山田耕筰の深い世界を合唱で表現した意欲作。
 
特に、母親の深い悲しみを表わすようなグリッサンド(音程のずり上げ、ずり下げ)が印象的です。
このグリッサンドは、フォルテ(強い)のときは時間をかけて大袈裟に行い、ピアノ(弱い)のときはテンポどおり小さく行うようにします。
そうすることで、より音楽の悲壮感が増すのですね。
 
どうしても演奏があっさりしすぎてしまうので、表現の研究が必要ですね。
 
しかし音がとれてきて、今やっと表現の勉強が始まり面白くなってきたところです。

Comment(0)