恩讐のかなたにあるものとは
「私はいつか親父を殺してやる。本当にそう思ってました。」
ある方の講演を拝聴したときのことです。
波乱万丈の人生を語る、その方の目は真剣そのものでした。
彼は若いころ、お父さんに不条理な理由でよく殴られたといいます。
「だから、こんなデコボコの頭になってしまいました。」
穏やかな笑みをうかべ、そうおっしゃいます。
そして「ヤクザになろうと思った。親父を絶対にいつか殺してやろうと思ったから。」
暴力を振るう方が、たとえ「この子のためだ」と覚悟していたとしても、受けている方にしてみればそれは身体の痛みと心の深い痛みでしかない。
そして、その痛みは永久に残る。
しかしその方は、その後スポーツを極められることにより精神を高められ、さらに人生において茨の道を選ばれました。
そこで素晴らしい人生の修行を積んでこられたのです。
今は、社会的な成功を収め、そしてお父さんとも良い関係を築かれておられます。
私の知り合いで、同じように親からの暴力を受けていた方がいます。
「いつかのときのために」と、部屋に木刀を隠しもっていたそうです。
逃げれば簡単かもしれません。しかし親は他人ではない。子供にとっては大事な信じている親なのです。逃げたくても逃げられないのです。
なぜ、「ことば」を持って接することができないのか。
しかし、ふと思います。本当は裁いている方が苦しんでいるのではないか。
いやいや、裁かれているほうの痛みのほうが強い、そう思われるかもしれません。
親子ですから、自分とそっくりなものに自分の嫌な面を見る。
思い通りにならない自分と決着をつけられない、本当はそんな自分を裁いているのではないか。
何かに怒りをぶつけてみても、それは必ず自分に返ってくるのです。
憎しみが強ければ強いほど、いつか何倍にもなって強く返ってくるのです。
憎しみではなく、感謝に変えることはできないか。
自分の心に正対することは、すなわち、それは自分を許し、自分を愛することになる。
昨日の記事で書いたベートーヴェン。
ベートーヴェン人生最後の交響曲である「第九」の第4楽章に「すべての人が兄弟となる」とあります。
ベートーヴェンは苦難をのりこえ、天地一切のものと和解し、きっとお父さんとも和解したのであろうと感じます。
恩讐のかなた。そこに、成長と幸せへの道があるのだと信じています。