見えないものを見るちから
林光さん(1931年~)作曲の合唱組曲に「原爆小景」という作品があります。
原民喜の詩「原爆小景」に出会い、広島や長崎の惨劇を、知ることも見ることもできなかった林さんが曲をつけたものです。
東京混声合唱団が、毎年8月初旬に行う「八月のまつり」という演奏会があります。
この演奏会では、必ず林さんの「原爆小景」が林さんの指揮で演奏されるのです。
有名な「水ヲ下サイ」で始まるこの曲は、合唱曲としても難曲だと思います。
プロの東京混声合唱団だからこそ演奏できるのではないでしょうか。
被爆者たちの叫びやうめき、絶望、悲しみなどが音楽から聴こえてきて、毎回息苦しさを覚え、コンサートの前半でぐったりとしてしまうほどです。
4月3日の日経新聞「文化」に林光さんの記事が掲載されていました。
・・・・(以下引用)・・・・・
作曲しているあいだ、いつもぼくに囁きつづける声は、お前は何も知らない、何も見ていないものが書けるのか、というものだった。
ぼくはその声に、知っていさえすれば書けるのか、見てさえいれば書けるのか、と弱々しく反論していた。
(中略)
詩人は見ていない、見ることのできないものについてうたっている。見えないものを見るのが詩人だと言っているように
(中略)
「届けることができる」もの、「届いた」ことが目で確かめられるものでない「届けもの」、つくる者、送り出す者が、時間をかけて手間をかけ渾身のちからで生み出して人々の精神にはたらきかける「もの」がやがて必要になる、いやいま必要なのかもしれないのだと思うのだ。
コンサートをやるべきか延期すべきかというような次元のこととしてでなく、もっと深いところで、そのことを考えてみたい。
・・・・・(以上引用)・・・・・
林光さんの作品で「日本叙情歌」という曲集があります。
「箱根八里」や「浜辺の歌」「この道」などを林さんの編曲で、原曲の味は十分生かしつつ、芸術的な領域まで高められた珠玉の作品集。
この曲集、一見音が少なく簡単に見えるのですが、とても難しいのです。
少ない音と音の間から、何かを汲み取って演奏しなければ形にならないようにできています。
目の前で起きている、この出来事。
ほんのわずかの違いで、これは自分の姿であったかもしれない。
見えないものを見る力とは、共感力のことを言うのではないかと思えます。