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芸術と商業のジレンマ リヒテルとアメリカ

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「すでにリヒテルの評判は聞いていたから、どんなふうかとても興味があった。
信じられないほどのすばらしさ・・・。
ピアノのあんな響きは聴いたことがない。まったく別物のようだった。
しかもあの情感!・・・・涙がこみあげてきた。
リヒテルは大音楽家だ。高い知性を持ちピアノを奏でている。ピアノに魂を吹き込みピアノで歌っている。」(「リヒテル<謎>」)
 
1960年。リヒテル45歳にして初のアメリカ公演で、これもまた大ピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインが述べたことばです。
 
リヒテルはほぼ独学でピアノを弾き、22歳でモスクワ音楽院に入学。その後大変遅いピアニストとしてのキャリアをスタートしました。
冷戦のため西側諸国での演奏はなかなか許可が下りず、評判のみが伝わるだけの「幻のピアニスト」だったのです。
 
アメリカの有力なインプレサリオ(大物プロデューサー)ヒューロックが毎年モスクワに来て交渉。さらにオイストラフもコンドラシンも、党中央委員会に「いい加減リヒテルを出してください。外国に行くと"リヒテルはいつ来てくれるのか"と聞かれるのです」と訴えます。欧米への出国許可は最終的にフルシチョフが決断しました。
 
しかし、リヒテルは渡米中、常に内務省の護衛官に尾行を受けることとなります。
リヒテルはひどく動揺し、混乱状態になってしまいました。
演奏会は大成功でしたが、彼自身、アメリカでの演奏は「喝采に値しないことを彼らは理解していない」と言って、不満だったようです。
 
私自身、リヒテルの残された録音からしか演奏を聴くことができないけれども、マグマのようなエネルギーを感じるその圧倒的な芸術に度肝を抜かれた一人。
ルービンシュタインが、アメリカ中が、熱狂するのも理解できるのです。生の演奏であったなら、さぞかし想像を絶するような凄まじさであったことでしょう。
 
リヒテルは、ミュンシュ、ホロヴィッツなど、アメリカにおいて素晴らしい音楽家の友人も出来、指揮者のオーマンディにも、何度も移住を勧められます。しかし、リヒテルはアメリカはどうもお気に召さなかったようです。
 
「私は国(ソ連)で平穏なのに・・・。アメリカは陳腐なんだ。あの規格化が気に入らない」(「リヒテル<謎>」)
 
そう言ってソ連に戻ってしまうのです。つまり、彼からすると深みが足りないということなのでしょう。
 
リヒテルはその後、独自の音楽をさらに深め、晩年82歳で亡くなる直前まで技術的な衰えもほとんど見せず演奏活動を行います。
そして、そのときの判断が、リヒテルを最後の最後まで神秘的なベールに包まれた演奏家であり巨匠たらしめたのではないだろうか、とついつい思ってしまうのです。
旧ソ連という国に住んでいたため、かえってアメリカの商業主義には乗らず、消耗されなかったのではないでしょうか。
あのチャイコフスキーコンクールでアメリカの英雄となったクライバーンのように。
 
商業と演奏芸術とは、未来永劫このようなジレンマからは逃れることはできないのでしょう。

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