常識を疑うと常識が無いは違う
仕事を行っている中で
「これはあきらかにおかしい」と思っても、いろいろなシガラミがあって
「まあいいや」と思って流すことがあると思います。
そこまでやる必要はない
という「事なかれ主義」に近い考えが、
自分がやっている仕事の価値を半減させてしまっていると知っているのに
何となく流されてしまう自分がいます。
特に日本の場合には、前例、慣習などの建前の文化が社会でまかり通り、
自分でもおかしいと思っていてもそれを許容してしまうような所があります。
しかし、そのような環境の中で育っていると、感覚が麻痺してしまい
「自分の力で自分の将来を切り拓く」ような変革の力まで失ってしまいます。
ビジネスを創りだす、社会に付加価値を提供する上で一番重要なことは
「常識を疑う」という感覚だと考えています。
常識が無い
というのでは困ります。
常識を知っていて、
その常識は正しいのだろうか?
と考える感覚が次世代のビジネスを創造する上で一番重要な感覚です。
自分の幼い時からの記憶をひも解くと、幼稚園のころからはある程度記憶があります。
その時に何を考えてモノゴトを判断していたのか、
何が常識になっていたのかなどを考えることがあります。
その頃から30数年を過ごしてきました。
自分の常識がどのような形で形成されてきたのかということを考えます。
大手企業の論理で意志決定がなされる組織で10年ほど仕事をしてきたので、
その中で少々の窮屈さは感じてきました。
ただ、その意思決定プロセスには影響されないという意志だけは維持してきました。
その意思決定のプロセスに反論するのであれば、
そのプロセス以上の考えの正当性を示さないと、ただの我儘な社員ということになります。
だから、常に必死に考えていました。
自分が正しいと思うことを、
客観的に検証してみて、論理的に説明できるようにすることで
相手にも理解してもらうレベルになってきます。
自分が正しいと思うことを、
殻に籠って「自分の方が正しいのに」と考えているだけでは
何の解決にもなりません。
自分に渡された仕事を最大限の努力で最大限の価値のあるものにする
ということが唯一、自分の力を認めてもらうことではないかと思います。
頭の中で考えていました
ということは誰でも言えます。
その考えを仕事にぶつけて、仕事を自分以外の人間に認めてもらうことで
自分の考えは正しかったということを証明できます。
日本は「本音と建前」がまかり通る国だから
自分なんかが頑張っても世の中がどうなるわけでもない
自分は正しくて周囲が間違っている
と思いながら仕事をすると楽しくもありませんし、
非常に無駄な時間を過ごしているようにも感じます。
次世代を担ってくれる世代の支援を行っているというのも、
このような考え方で仕事に取り組んで充実感も達成感も無いような
社会人になってしまうという不幸を少しでも防げればと考えてのことです。
簡単ではありませんし、
このような仕事は大学などの教育専門機関に任せて、というのが常識です。
ただ、きちんと教えてあげれば、
学生でも大きなことができるということを教えてあげたいと思っています。
その中で、真剣になると大きな充実感、達成感を得ることができるということを感じてもらいたいと考えています。