職場での自然な行動の背景にあるもの
「人は興味があるもの以外はほとんど見えていない」
ということはよく言われますが、
自分で自覚しているわけではないようにも感じます。
情報があふれる時代になり、さまざまな情報が簡単に手に入るようになって、
更に情報に対して無頓着な人が増えてきたような気がします。
しかし、これは相対的な問題であり、
人間の頭の中に入っている情報の絶対量は変わっていないのではないでしょうか。
広告などを考えた場合には、情報を発信する側の論理で言うと
「この情報に気付いていない人たちに気付いてもらう」
ということになります。とてもお節介な行動にも思えます。
知らなくて幸せに過ごしていた人たちに、自分たちの商業主義的な発想を押しつける、
大量消費社会というのは、生産者にとっては非常に都合がよい社会です。
日本の戦後というのは、
米国から、大量消費社会の思想が徹底的に入ってきた時期ではないかと思います。
食も変化して、生活習慣、趣味嗜好というものも大きく変化しました。
その中で、地域は公害に悩まされ、人は生活習慣病に悩まされ、
社会は化石燃料の高騰に振り回されました。
そのような状況になることはある程度予測できるのに、
目の前の利便性、快楽などに負けてしまい自分の意志を弱いものにしていきます。
そして、考えなくなってきたのではないでしょうか。
広告などにしたがって生きていった方が楽だ。
というある意味、あきらめにも似た意識になります。
脳が疲れてしまったのかもしれません。
筋肉は、無理を強いると乳酸が発生して一時的に機能しなくなりますし、
翌日などには凝り(コリ)が発生します。
脳に無理を強いると乳酸は発生するのでしょうか?
凝りなどは発生するのでしょうか?
なんとなくわかるのは、
無理に情報をインプットすると、脳も疲れそうだ、ということぐらいでしょうか。
乳酸の変わりに
「あきらめ」「無関心」「見えているのに見えない」
という予防処置を行っているのかもしれません。
脳が疲れないように、脳が自己防衛している。
逆に、脳に何の刺激も無い状態になる、
すなわち、情報を何もインプットしない状況になると、
脳は飢餓状態になって幻覚を見たり、幻聴が聞こえたりと
勝手に自分で情報を生成するようです。
適度な情報を常にインプットして、
脳が快適になるようにコンディションを保ってやるというのも
大切なことのように感じます。
「モノを言わぬ臓器」とはよく言ったもので、
悲鳴をあげない分、過度に無理をさせてしまうことが多いような気がします。
さて、脳の話などをしましたが、
「仕事ができるようになる」
ということは、どのような状況なのかということを、いつも考えます。
自分の興味だけで、
脳に次々に情報をインプットしていても、仕事はできるようになります。
断定するのは良くないので補足すると、
そこそこはできるようになる、
人から言われたことをスピーディに処理することができるレベルになる
と言った方がよいかもしれません。
まあ、これが職務遂行能力の一番の基本なので、
これはできるようにならないといけないのですが、
次の段階である、
「人から言われたことに付加価値をつける」
という行為はどうでしょうか?
基本的には言われたことを時間内にきちんとできる、ということが基本ですが、
その方向性でプラスアルファをつけるというのは、
時間的な余裕、思考的にも余裕がないとできません。
時間的な余裕は工夫でなんとでもなりますが、
思考的な余裕というのは頭の回転と十分な情報量が必要になります。
仕事で必要となる情報というのは、
視野の違いで、見えている人と見えていない人が同じ職場にも存在します。
マネージメントを担当している人には見えているものも、
現場を走り回っている人には見えていない場合があります。
だから、情報の量と質はマネージメントする人が調整してあげないといけません。
なんでも見せていたら、迷いも生じしますし、あきらめも生じます。
情報のアンテナの感度が鈍りますし、最悪、アンテナが機能しなくなります。
情報を垂れ流しにしてしまって、
1人1台のパソコンで新入社員までもが自分で情報を検索して
仕事をするようにしてしまった会社などは、
ある意味、好き勝手に仕事をしているような状態に陥りがちです。
当社でも、社員個々に、
自分の業務に必要だと思う分野の書籍、
自分に足りないと思う思考に関する書籍などを読むように推奨しています。
会社で購入した書籍などをどの社員が積極的に利用しているか
などを黙ってみていると、いろいろと面白いことが見えてきます。
仕事に付加価値をつけよう、
自分の考えだけでなく相手の思考に合わせた提案をできるようになりたい
と考えることができるようになっている社員は、
自分の専門とは違った分野の書籍なども積極的に購読しています。
まだ、自分の欲求との葛藤を繰り返している社員は、
なかなか行動にはつながりません。
悪意ではありません。
自分の行動を仕事軸で統制できていないという状態なのかもしれません。
人間は自分の興味があることしか見えないと最初に書きましたが、
今現在で自分に興味がない書籍を読むのは苦痛ですし、
そもそもそのような行動は課題図書でも指定しない限りは行いません。
では、その無理を強いるのか?
なんか楽しくないような状況になりそうです。
では?
ということで考えると、
今、目の前にある仕事を好きになってもらうしかありません。
自分な好きなことを仕事にして成功する人は、
芸術家やスポーツ選手などにはいるかもしれません。
ただ、一般的な仕事では、
好きなこともやれますが、得意じゃないこともやらないと給料などはもらえません。
好きとか嫌いとはいう感情も押し殺して、
時間内にたんたんと仕事をしている人もいます。
職場の活性化などの支援の仕事を行っていると
「やらされ感」というものの解消が議論の対象になる場合があります。
「やらされ感」というものを感じる人間の思考構造は
どのようになっているのかということです。
自分は別にやりたいことがあるのに上司は別のことを指示してくる
という状況なのでしょう。
別にやりたいことがあるのであれば、
それを仕事にさせれば良いのかもしれませんが、
それが会社の方針と違ったり、
その仕事でお金を生み出すのが難しいと判断されているのかもしれません。
ただ、根本的にこの問題を解決するには、
会社の方針というものを自分の行動指針として受け入れるということを
面倒ですがやらないといけないということになりますし、
自分がやりたいと思っている仕事を
その職場で実現するには、収支を合わせるということが必要になります。
利益を出すこともできない、
もっと言うと、
自分の人件費(給与、交通費、保険掛け金、福利厚生費、育成費などの総額)すら
確保できない仕事が自分のやりたいことだとなると、ほとんど趣味の話になります。
会社や同僚にお世話になりながら、自分のわがままは通したい。
これを継続するのは厳しいです。
ですから、
自分の職場や仕事について主体的に考える習慣をつけるために、
自分にとっても周囲の同僚にとっても働きやすい職場つくりについて
主体的に考える、
目の前の仕事の成果を出すために主体的に考える
ということを習慣つけないといけません。
それを習慣化できるかどうかで、
仕事に必要な情報が見えるかどうかが変わってきます。
経済に対して、仕事に対して危機感が出てきた今、
大量消費社会に狂ってしまった感覚を修正して、
自然な感覚で仕事に取り組むことが重要になってきています。