人間の成長について論理的に考える
爆発的な情報量の増加で苦しんでいる人たちが増えたように感じます。
一見、情報量が増えると便利なように感じますが、
自分で処理できない量の情報を目の前にすると、
人間は自然に受け流すという行動をおこなうようです。
一種の防衛反応なのかもしれません。
以前、字が下手な人の話を投稿しましたが、
目から入ってくる情報をそのまま体の動きにつなげるということを
人間はできないようです。
目から入ってきた情報をもとに体を動かしてみる
↓
その結果をまた目で確認して、徐々に体の動きを修正していく
↓
以上から正確な動きを習得していく
という表現が正しいのではないかと思います。
知ったこと、記憶したことを行動で検証して自分の中に経験として情報を蓄積して、
その経験という情報の蓄積がある時、
大きなひらめきとして私たちに大きな気づきを与えてくれるのでしょう。
仕事の遂行力 = 知識 × 経験
と言われますが、
熱意 × 経験 = ひらめき
となり、
仕事で成果を出すためには、
知識 × 熱意 × 経験
という方程式が成り立ち、経験という部分にレバレッジを効かせるとすれば、
周囲の人たちの経験を自分の経験として情報化して取り込むために
素直な姿勢が必要になるということになるのではないかと思います。
特に情報化社会になって頭の中断片化した情報が貯まっている状態で、
その情報を整理整頓していく過程の中で人と話をしたり、
ストーリーがある本などを読むという行為は有効であるように感じます。
情報が断片化しても、
ある程度の情報量が貯まると、私たちの脳は、
なんらかの「ひらめき」を与えてくれるようにできているようで、
その「ひらめき」を意図的に得るためには、
外部からの情報のインプットを一時的に止めるということが有効なようです。
食品などを発酵などをさせるときに「ねかせる」ということをやりますが、
この状態に似ているように感じます。
頭の中に一定の情報量をインプットして醸成させるという感覚です。
ですから、ゴールデンウィークのように、
一定期間の休みを定期的に取得するというのは効率的で、
その間にいろいろな「ひらめき」が出てくるのではないかと思います。
5月病とかいう言葉で休み明けからダラけているような精神構造では論外ですが・・・
自分で意識した情報しか脳が認識してくれないということは、
同じシチュエーションにいたのに「気づき」が人によって全然違う
ということからもわかります。
興味がない情報は目から入ってくることも無いと言うのが正しい表現かもしれません。
ということは、
人によって見えている風景も違うということになりますので、
芸術的なセンスがある人とセンスが無い人は見えているものも違うということも納得できますし、
ビジネス的なセンスの問題も説明がつきます。
ビジネス的なセンスを磨きたいという熱意だけではどうしようもなく、
知識も得る必要がありますし、
素直な心を持って経験がある人たちの助言に耳を傾けるということも
必要な資質になります。
人が育つためには、
組織的にもバランスのよい状態を保つということも考えないといけませんので、
情報化社会においては、
ある程度の情報の絞り込みも必要になってくるということになるでしょう。
仕事などをしていて「煮詰まる」という状態になったときに、
場を変えたり、仕切り直しをすると新しい発想が出てきたりするのは
頭をリセットしたという行為をしたということになるのではないかと思います。
私も飛行機や新幹線で移動することが多いのですが、
飛行機や電車に乗り込む前に徹底的に情報を頭にインプットしておくと、
移動中に思いもよらない発想がわくことがあります。
ボーとした状態というのも意識的につくると悪くない時間に感じます。
これらのことも自分で気づいて行動につなげることで成果につながりますので、
本当に素直な心というのは人間の成長にとって一番ではないかと感じています。
素直じゃない人間というのは育てにくいと周囲から感じられるので、
それだけでも損してしまっています。