Threats to validityを意識する。メールでは特に
先人、師匠、先輩に「なんでお前なんかがthreats to validityを。。」といわれてしまうのが怖いくらいに、我々の分野では観測や評価にはthreats to validityを述べることが浸透している。浸透具合は我々の分野の商習慣といってもおかしくないくらいのレベルだ。
メールや会話でもこれを使えばよりスムーズになるのではないかと思う出来事があった。特に組織外部の人とやりとりするときに役立つのではないだろうか。メールの場合、あんまり真剣にやるといつまでたっても送信できなくなるのでほどほどにしないといけないのだが。
我々の分野でthreats to validityとは、観測や評価結果にもとづいて一般化や全体に成り立ちそうな傾向や法則を述べ、その妥当性評価をすることを指す。具体的には以下を検討する。
- 思い込みによる一般化や都合のいい解釈をしている可能性がないか
- 客観的裏づけのないことを述べていないか
- どちらともいえない(判断できない)部分がないか
(あるならばそれをオープンにしておく)
ものごとがうまく運ばなくなっている状況(たとえばソフトウェア開発プロジェクトの終盤でも起こり得る)では、メールでのやりとりがスムーズにいかなくなることがある。殺伐としたメールが飛び交う中でうまくやりとりをしている方々の特徴を思い出してみると(普段からオープンな方で誰とでも仲良くできるのだが)、メールでの質問やお願いにその回答や実施結果を使って何をしたいかを書いていることではないかと思った。皆さんのまわりにもあてはまるだろうか。
もう一歩進めてそれらの会話やメールの特徴を考えてみたら、メールや会話の中にthreats to validityの精神があることではないかと思えてきた。特にトラブルシューティングの際には、どのような意図があるかをthreats to validity風に併せて書いておくとメールのトラブルが減るように思う。
たとえば、システムテスト中に「・・・機能がおかしいんだけど、~の設定を間違えてるだろ」と断定的に書くよりは「・・・機能がおかしいと思うんだけど、~の設定を確認してもらえない?~の設定が明確になると切り分けができると思うから」と書いたほうが、ことがスムーズに運ぶと思う。その状態でメールを使うこと自体があまり賢い選択ではない場合もあるが。
ここで前にも書いたが、有益な指摘であってもやり方によっては残念な結果になってしまうことがある。余裕がなくなっているときにthreats to validityのことを思い出せれば、よりよい指摘ができるようになるのではないだろうか。(余裕がないからこそやってしまうんだとは思うが。。)
「このエントリのthreats to validityは?」という質問されたら。。
「まだまだですが、殺伐とはしていないので。。。」と答えようと思う。