津本陽さんの「私の履歴書」
以前当ブログで書きましたが、津本陽さんは、私が大好きな作家の一人です。
事実を淡々と積み重ねていくことで、その人の人間性に迫る骨太な文体は、津本さんならではです。
今月の日本経済新聞「私の履歴書」は、この津本陽さんです。
昨日の12/21で全体の70%が過ぎました。
通常「私の履歴書」では、連載20日を過ぎると壮年期のことを書いていることが多いのですが、津本さんの連載では、まだ中学生の戦争当時のことを書いていました。
なぜ少年時代のことを長く書いているのか不思議でした。
しかし、12/21の連載でその理由が分りました。
戦争末期、動員させられた戦闘機生産の工場で、空襲に遭ったときのことが書かれています。
今まで一緒にいた人達が空襲により吹っ飛ばされて跡形もなく消えた様子が淡々と描かれています。
12/21の連載の最後は、このように締めくくられています。
---(以下、2009年12月21日の連載から引用)---
私の身内には、人の命がいかにはかないものかという無常観が松の磐根のようにくいこんでいた。幼い頃の浄土真宗の教えと結びついて、生は一瞬間のことだと自分にいい聞かせるようになった。一瞬間であれば、好きなことだけやればいいと考えるが、人なみの生活を送るためには、嫌なことばかりやらなければならない。成長して、社会に歩みいってゆく私には、常につまらないことをしているという思いがつきまとい、それが長い心の痛みとなっていった。
---(以上、抜粋)----
ちなみに、この10日前の12/11は「遺骨の列」というタイトルで、戦争が激化し、日本が米国とガダルカナルで消耗戦に突入した昭和18年、学校の配属将校が
「明日英霊が帰還するので、全員奉迎する」
と伝えた翌日のことを書かれています。
津本さんが空襲に遭った1年ほど前でしょうか?
以下、引用します。
---(以下、2009年12月11日の連載から引用)---
...「気をつけ」の姿勢で待つうち、ザクザクと路面を踏む音とともに、白布で包んだ遺骨箱を首からつるした兵隊が、二列であらわれた。
....私たちが予想もしなかった長蛇の列がいつまでも続くので、緊張して息苦しくなった。
「凄い数やな。戦死者の数はどれだけやろ。どこで死んだのやろ」
いくつもの問いかけが、身内に泡のように浮かんでくる。ただことではないと、私たちは思っていた。歩兵第二十四部隊は、国道をはさみ和中と東西にむかいあう場所にあるが、遺骨を運ぶ二列縦隊の先頭が営門をくぐったとき、遠く離れた東和歌山駅に後尾が残っていたと、あとで聞いた。
---(以上、引用)---
Wikipedia「ガダルカナル島の戦い」によると、ガダルカナル島に上陸した総兵力31,404名、撤退できたものは10,652名、負傷・後送された者740名、死者・行方不明者二万名強、うち、直接の戦闘死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死(事実上の餓死)だったと推定されています。
本日22日は、一転して、大学生時代と若手会社員のことが一気に書かれています。
中学時代の体験が、津本陽さんの原体験になっており、この部分を総括しなければ、自分の履歴書を完成できないということなのでしょう。
わずか65年前の日本のことです。
非常に重いものを感じました。