核のバランスは本当に世界の安定に寄与するか?
この週末は用事が立て込んでいて、遅くなった。
核兵器禁止条約に向けた交渉開始の決議案が国連で可決された。しかし、唯一の被爆国である我が国は米国など核保有国と歩調を合わせて反対した。その理由は、報道によれば、北朝鮮の核兵器開発の深刻化と、この交渉が核兵器保有国と非保有国の間の対立を助長する可能性があるということらしい。
確かに、北朝鮮の脅威は存在する。だが、では、核のバランスは本当に世界の諸国間の関係の安定に寄与しているのか?本当は必要ないものだった核を米ロでしのぎを削って作ってしまったために、それが結果としてのバランスにつながっているだけで、国際社会での同意を確保しつつ削減、禁止に向けて進めるのであれば、バランスを失することはないのではないか?そもそも交渉を開始しなくても、核保有国と非保有国との間には対立は存在するのではないか?
北朝鮮の昨今の動向は異常だが、それは単に北朝鮮の国内の問題だけが原因なのか?核をベースにした国際社会と、その最大の保有国の一つに保護された隣国の存在がもう一つの大きな理由ではないのか?ともかくも、広島・長崎の経験を踏まえれば、核兵器の人類に対する利用は絶対に許されてはならないし、だとすれば利用しない兵器を保有し続けることで世界の平和の安定が保たれるという議論もまたナンセンスと言わざるを得ない。
過去の経緯や現状をベースに考えるところに世界のシステムの革新は望めないし、明らかに世界の社会システムや経済システムが、これまでの常識をベースにしたものでは機能しなくなってきている点に鑑みれば、人類が今なすべきことは、現状をベースにものを考えるのではなくいて、人類のあるべき姿を共有し、そこに向かって、現状を踏まえてどう一歩を進めるかを議論することではないのか?
被爆国である我が国がこの決議案に反対し、ドイツにおいて移民忌避の動きが強まって、ナチス時代に使われた死語である「裏切者」とか「虚言メディア」などという用語が使われるようになってきているという報道に触れるにつけ、過去に対する反省や理解が徐々に薄れていく恐ろしさを感じるのは私だけだろうか?
戦争の世紀と呼ばれる一方で、人類の平等という概念を生みだし、国際社会において国連という仕組みを通じて人類の共生を図ろうとした我々の知恵を風化させてはならないと考えるのだ。