人類が一番大切にすべきこと
この間、米国在住の国際政治学者である入江昭氏の話を聞く機会があった。短いお話だったが、戦争の世紀と言われる20世紀について、「そんなに捨てたものではない。なぜなら20世紀に人権、「human rights」だとか人類、「human」というコンセプトだとか、更にはグローバルというコンセプトが生まれたのだら」というお話であった。確かに、北米における黒人差別が制度的に解決したのは20世紀だったし、我が国における差別問題も、バブル期を経て現在はかなりの程度解消されているように感じる。
もっとも、フィリピンのドゥテルテ大統領は、麻薬関係者を処刑を続けており、如何に犯罪者とは言え生命を奪うということからすれば、人権が尊重されているとは言えない。その大統領の支持率が76%ということだから、如何にフィリピン社会が麻薬によって被害を受けてきたかということが分かるとともに、戦後アジアにおける途上国の中で優等生として成長が期待されながら、いつの間にか周囲の国に追い越されていった同国の、多数の島からなる統治の難しさ、宗教対立の影響、米軍駐留の影響、台風の影響、更には国民性などもある中での、問題が何となく浮き彫りになってくる気がする。
いずれにしても、引き続きISを始めとして、人権概念が完全に浸透しているとは言えないので、これをさらに推し進める必要があると思われるが、20世紀が「人権の世紀」でもあったとすれば、21世紀はポジティブな側面では何の世紀にすべきなのか?相変わらず国際紛争は後を絶たず、引き続き「戦争の世紀」とならないように祈るばかりだが、一方で人権と相通じるかもしれないが、「公益」とか「public」とかいうものを中心に据えられないか、という気がする。
中国が主導したアジスアベバとジブチ間の鉄道が完成したようだ。中国輸出入銀行が7割を出資したようで、アフリカ経済にとっても意義あるプロジェクトだと考える。ただ、全体の内容を知らないので、推測で申し上げれば、この中国の支援も、結局これまで欧州各国が行ってきたアフリカへの経済支援と同じではないか、と考えるのだ。確かに、経済効果は期待できる。だが、この鉄道が仮に成功して収益路線となった時、誰がその恩恵を受けるのか、それは中国が大宗ではないか?
大規模なプロジェクトに、命の次に大事な資金を投じる投資家は確かにそのリスクテイクに見合った見返りを受けるべきだ。だが、一方で企業体というものが、従業員であったり、その存立する社会であったり、取引先であったり、様々なステイクホルダーがいるから、投資家に引き渡す配当を獲得できるのも事実だ。その意味で企業は公的な存在であり、公に貢献すべきは当然だ、というのが「公益」の考え方だ。
だから、仮に途上国に貢献すべきとしても、単に資金を投じ、現代のウォールストリート型の、或いは拝金主義の中国型の資本主義の仕組みを踏襲するのではなく、プロジェクトの所有構造をハイブリッドにして、最終的に現地国民が所有するような形に移行できる手法を考えることは出来ないのか?それでこそ、その国の自立的な成長に繋がるのではないか?その収益をもって、例えば鉄道が通るのを見て心躍らせた子供たちが、将来運転手さんになれるような教育課程を国内に作ることなどに使えるのではないか?
世界銀行の調査では、ISの構成員は、それぞれの出身国の平均と比して学歴が高いということだ。これこそが、ある意味それぞれの国における統治に対する不満、もっと言えば、先進国における大産業・投資家主導型、途上国における一部の政権関係者の富の独占型の社会構造に対する不満を示しているような気がする。全世界の人々が、自分たちとか特定の集団ではなく、周囲の人々のこと、国民のこと、人類のことに思いをいたす、そのような「公益」という概念が、今世紀のカギになってほしい。