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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

国際社会における努力は十分か?

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いつも同じ話題で恐縮だが、今朝あるテレビ番組で、安保法案と密接な関係があることとして、抗日70年記念式典が取り上げられていたことに違和感を覚えた。確かに、中韓或いはロシアの日本に対する強硬な姿勢は、安倍政権にとっての安保議論推進の大きな理由の一つだと思うが、安保法案の本質はこのような背景にかかわるではない。このような報道がされること自体が、マスコミが如何に能力がないか、或いは政府にコントロールされているかということの証左だ。

極めて単純に、法案が違憲であり、或いは憲法の根幹にかかわる問題でその正当性に大きな疑義があるこのような解釈変更を政権の独断ですることが、内閣の権限の根拠でもある立憲政治に違背しているという点が問題なのだ。そして、またこれを憲法解釈の最終権限は最高裁と言いながら、最高裁自体が全く触れてもいないことについて、判例を拡張解釈して正当化しようとしていることが欺瞞だということだ。

さて、安保法制はひとまずおいて、抗日70年について、中国の国家主席の発言が残念だとか、国連事務総長の参加は怪しからんとか言っているが、何故我が国の政府は現実を理解しようとしないのか?好むと好まざるに関わらず、現在の世界秩序は第二次大戦の戦勝国中心に作られているのであり、我が国はその秩序の中で敗戦国であって敵国なのだ。このことは、新たな世界大戦でも起こらない限り変わらないだろう。

このことを理解せず、或いはこのことを変える努力もせず、ただ怪しからんというのは、結果として過去の不幸な歴史を認識せず、現在の秩序の背景を認識しない国家として、世界から白い目で見られるということだ。ところが、現政権は、靖国参拝を正当化し、平和憲法を解釈で変更しても、戦前のように一部の親密国との同盟関係を築くことで、今の秩序に対抗しようとしている、と思われているのではないか?

是非、我が国が真剣に見直すべきは、終戦後同じ立場だったドイツのこれまでの歴史と今だ。もちろん文化も国民性もかなり異なる地域ではあるし、また過去がすべて欧州で忘れ去られているわけではなく、相変わらず根深く残るものがあるのは私も身をもって感じたことがあるが、それにしても我が国が中国や韓国から受けるような強い批判をドイツが受けているとは思えない。

一つの大きな要因として、ドイツの欧州圏における圧倒的な経済力はあるだろう。一方、アジア地域においては、つい最近まで我が国は群を抜く経済力で、他をリードしてきた。ところが、昨今多数の国の台頭で我が国の地位は低下しており、国際政治が力のバランスだという現実からして、経済的な条件の変化が国家間の関係に変化をもたらすことは自明の理だ。

だとすれば、そのような当たり前のことに気づかず、冷静構造の前も後も、ただひたすら製造業至上主義で経済運営だけを行ってきた我が国の政治・外交そのものに未来を見据える目とか戦略がなかったということではないか?私は、いろいろと難しい点はあるが、我が国の国際社会における地位を維持するためには、米国との関係の維持だけでなく、近隣である中国などとの協調もまた不可欠だろうと考えている。

もちろんイスラム圏や、アフリカ、中南米などとの関係はもとより、東南アジアとのより密接な関係の構築も不可欠だが、要は近隣諸国と協調して世界に貢献するという立場だと考える。そしてそれは軍事同盟でも、対立構造でもないのだ。

米国において、大統領候補に名乗りを上げているトランプ氏が、日本の安全保障ただ乗り論を展開している。そして、それがまた安倍政権の安保法制の理由にもなるような議論すらある。私も、いつまでの米国の若い兵士が、他国たる我が国の平和を命を懸けて守るなどというおかしな構造が続くことはありえないと思う。

だが、だから軍備面で協力するのではなく、米軍が駐留しなくて良いようにどうしていくか、国民的な議論を行って、必要であれば憲法改正の議論をすれば良いというのが、私の考えだ。

そして、私自身米国に反旗を翻すつもりはないが、一方で良く記憶しておくべきことは、第二次大戦を始めさせたのも、終わらせたのも、自衛隊を作らせたのも、偏った資本主義に陥らせたのも、全て米国だということだ。

エンブレム問題や国立競技場問題を見ていて、すぐにだれの責任かという議論になる。だが、だれの責任かなどという前に、そもそも我が国の社会や組織、これを司る仕組み自体が、全く機能しなくなりつつあることに気づくべきだ。要は、このような問題が起こるということは、我が国の国民がそもそもまともに物事を進める力を有していないということなのだ。そして、それはだれか特定の人ではなく、我が国の社会そのものの問題なのだ。

残念ながら、このままでは我が国は経済力もさることながら、社会の仕組みとしても三流以下というレッテルを貼られるのは近いと思われる。立憲政治も国際秩序も理解できない政治家が国家を運営していて、原発事故の原因究明や実態解明すらできていないのに、原発再稼働を認め、使い道のない普通の4-5倍の価格の競技施設を作り、世界的イベントにコピーしかできないデザイナーが恥ずかしげもなく堂々と応募し、などという国家が、そして、「平和憲法」を独断で有名無実にしようとする我が国が、本当に「平和の祭典」であるオリンピックなどを開催する資格があるのか?

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