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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

被害者と加害者

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伊豆の電気柵の設置者が自殺したようだ。もちろんきちんと表示をしないで、しかも技術的にも不確かな方法で、という点で落ち度は否めない。だが、これは報道がただひたすら犯人捜し、落ち度探しに明けくれた結果であり、果たしてこんな結論が良かったのか、疑問が残るし痛ましい。詳細を知らないので、コメントは避けるが本当に彼だけがすべての責めを負うべきだったのか、もう少し彼の気持ちを慮った報道なりはあり得なかったのか?彼の電気柵設置が必ずしも私利私欲のための行動とも思えず、疑問を呈したい。

以前に六本木ヒルズで回転ドアに子供が挟まれて死亡する事件があった。あの際にも、結局ビル管理やドアの業者が批判を浴びたことを思い出す。だが、おそらく米国であれば一緒にいた母親が刑事責任を負う話になるだろう。子供を連れて外に出るということは、自分とは異なる人格である子供の生命・身体を守る義務が発生するということだ。そのことが、肉親であるというだけで逆にその義務がどこかに消えてなくなり、被害者としての側面しか報道されないことに違和感を覚えた。

丁度、広島・長崎への原爆投下の記念日が続いており、毎年のことながら過去の映像などが流されるとともに、原爆投下の是非や、広島・長崎の国際社会に対する平和への思いを伝えたいということが報道される。そして、その度に、米国の関係者が「日本が始めた戦争を終わらせるために必要だったから正当化される」と主張し、また中国が「原爆の悲惨さをもって日本が被害者面をすることが許せない」と主張する。

だが、戦争を終結させるためであれば、一般市民29万人を殺戮してもよいのか、戦時においても攻撃対象には一定のルールがあるのではないか、また仮に第二次世界大戦が日本による侵略戦争だとしても、同時に原爆の被害者であることは事実ではないのか、と思う次第だ。つまり何が言いたいかというと、被害者だ、加害者だという議論自体が相対的なもので、それだけで全ての権利・義務が決定するものではないということだ。

確かに、太平洋戦争の口火を切ったのは日本であることは間違いない。だが、そうせざるを得ない状況を作り出したのは欧米列強であり、さらに言えば開戦の状況すら全て米国にコントロールされていたと言われる。そして、そうであるにも関わらず米国は終戦のためということで、原爆を投下し多くの一般市民を殺戮した。

終戦後は、確かに米国がいたために我が国が分割されずにすんだということは事実だが、憲法の制定にも米国の意思は深く関与し、その後の朝鮮動乱や自衛隊の設置、さらには日米安保や日米構造協議を含めて、東西冷戦構造の崩壊まで、我が国の国家運営や経済運営は米国のコントロールの下で行われてきている。これが、現在の我が国の会社法や金融制度にも多大な影響を及ぼし、短期的な収益の株主への配分を求める社会的な仕組みにまで広がっている。

丁度、社外取締役を法制化する法案を野党が提出したようだ。だが、社外取締役が本当に企業が事業を通じて社会貢献するために寄与できるのか?何でも米国流の仕組みを入れれば良いという無定見な考え方に依拠してはいないか?東芝事件は、社外取締役の制度が機能していないからだ、会計専門家を社外取締役にすべきだ、など短絡的な議論が行われている。

最大の問題は、2点。社外取締役は力のある人であれば意味はあると思うが、そもそもそのような人がどれだけ我が国にいるか?会計士でなくとも、企業経営をした経験があれば経理・財務はわかるのが当然。問題は企業の成長の中で、サラリーマンの延長でトップになった経営者が大部分だから、そもそも社外取締役としての役割を果たせる人間が少ないというのが問題。もう一つは、仮に真面目に社外取締役を務めようと思っても、これをサポートする仕組みが十分に存在しないこと。つまり会社側が社外役員を支援し、必要な情報がすぐに得られる体制を整える必要があるということだ。

閑話休題。要は、第二次大戦でも、その後の体制でも、実は我が国は実質的に自らコントロールすることが出来ず、かなりの程度欧米の書いたシナリオ通りに操られてきているのかもしれない、ということだ。もちろんだからと言って開戦の責任や、他国に与えた様々な悲惨な状況に対して、きちんとその責務は認識すべきだ。だが、では原爆の被害者という立場は主張できないのか、開戦したから非人道的な殺りく行為を批判してはいけないのか?

要は、これらの議論は、第二次大戦後の連合国側の論理に基づくものではないか?いまだに我が国が敵国条項対象国であるという事実も、これに裏付けられているのではないか?つまり、我が国はその後ただひたすら世界平和のために、或いは世界の貧しい人々のために様々な努力をしてきたが、その努力は全く顧みられず常に敗戦国として加害者として扱われなければならないのか?

その意味で、このようなジレンマから脱却したい、そのためには再度本当の独立国としての立場を取り戻すために、謝罪をせず賠償は終わったと主張し、そして一歩を踏み出したいという首相の気持ちはわからないわけではない。だが、その手法がすでに第二次大戦前に試みて失敗した、相も変わらずの旧態然とした軍事バランスというところに違和感を感じる。

さらに言えば、そうやって敗戦国の立場から脱却したいと思いつつ、ある意味でもっとも我が国を苦しめた米国を守るというスタンスになっているとしたら、それは大きな矛盾ではないか?もちろん私も米国との安全保障が今すぐ解消できると思っているわけでないし、米国に感謝する気持ちも多々もっているが、やはり我が国が目指す方向性としては疑問を差し挟まざるを得ない。本当に米国を集団的自衛権のパートナーとして未来永劫考えるのであれば、米国に第二次大戦後の勝者・敗者を前提とした国際社会の在り方に対する見直しをまずはしていただくのではないか

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