相互依存よりまずは自立ー「七つの習慣」に思う
利己主義社会で通用するのか?
スティーブン・コヴィーの著した今全米で評判になっている「七つの習慣」を読んだ。読んだと言っても、2日くらいで、新幹線の中で一読しただけなので、眺めたと言ったほうが良いかもしれないが。
まず、ちょっと驚いたのは、個人主義の色彩の強い米国において、このような「相互依存」を重視する人生指南書がベストセラーになっていることだ。もっともこの中でも随所に垣間見られるキリスト教の精神からすれば、ある意味で当然なのかもしれないが。つまり、米国のような個人主義社会だからこそ、この書籍がそれなりの意味を持つのだろう。ただ、そう考えると、一方で7つの習慣のうちの、最初の三つ、つまりまずは自立が必要という部分は違和感を覚える。つまり、米国においてすら、依存型の生き方、考え方が蔓延しているのかもしれない、ということだ。
翻って日本という社会を考えると、「相互依存」を声高に標榜することは、ちょっと危険なような気もする。もともと農耕社会で相互依存型であったところに、戦後米国の個人主義の悪いところだけを吸収したわが国は、かなりの程度利己主義社会だ。つまり個人の権利は主張するが、人のことは気にしない、何でもうまくいかないのは人や国、政治が悪いのであって、自分の責任ではない、という考え方が圧倒的主流になっている。だから、7つの習慣のうちの主体性を発揮するという第一の習慣を大事に出来れば、ちょっとは変わるのでは、と思うが。
大学の教材にしたら?
全体として、七つの習慣であるかどうかは別にして、相応に自分の人生を考えて生きている人間は、それなりに自らいろいろな習慣を築いてきているはずだ。ただ、実際の世の中は、なかなか理屈通りには行かない。「人のせいにしないで、主体性を持ってやれば道は開ける」というのは、確かに理念的には正しいが、明日の食い扶持もない人間にそれが出来るか?現実にそのような環境にいる人間がますます増えているのも事実だ。だから、この七つの習慣はどうしてもある程度余裕のある人間だけが対象になるような気がする。
「人を理解しようとすることが大事」「自分の経験や見方で理解しようとするのではなく、相手の考え方をまずは聞くこと」、などは確かにその通りだが、長い間それぞれ自己のパラダイムで反目し合ってきた人間が、簡単にこれを転換できるとも思えない。残念ながら、一定の年齢に達すれば、そもそも自らの考えや行動をコントロールするのは難しくなるのも事実だ。従って、例えばわが国のことを考えても、今のリーダーに求めるのはちょっと難しくて、次の世代或いはさらにその先の世代に求めることになるのではないか?そもそもこの書籍が何の本なのか分からないが、大学で教えてみるのも良いような気がする。今の若者であれば、GDPとかモノに対する欲が少なく、このような考え方をうまく人生に活かしていけるベースを持っているように感じる。
確かに自己流にしか他人を見れない!
そうは言っても、自らを省みて「確かに」と思える個所は随所にある。夫婦の間、親子の間、自分もいかに自分の考え方、モノの見方でしか相手を理解しようとしていなかったか、改めて考えさせられた。子供たちとの関係は、既に彼らが大人になり、それなりに逆に私のことを理解する余裕も出来、一方で私自身も子供たちを大人として見る故に、接し方も変化していることもあって、今はもはや変えようもないし、大きな問題ではないのかもしれないが、ちょうどこの間も彼らと会ったときに、「小さいころお父さんとキャッチボールをしていて、時々強い球が返ってくるのが痛くて、楽しくなかった」という発言を聞いて、ちょっとショックを受けたことを思い出した。自分では、自分の子供のころの記憶から、父親が思い切り投げてくれるのが、自分を大人扱いしてくれているように感じて、嬉しかったのだ。
夫婦というか、異性との間のことにおいては、もはや枚挙に暇はない。さすがに多少は年を取り、いろいろな経験をしてきたので、大きな亀裂を生じさせないような振舞い方は出来るようになっているが、そもそも男性の私としては、「女性は全く違う生き物」ということを理解するのに、ここまでの人生の太宗を費やしてきた。今は「違う」ということだけは認識しているので、何か意見の食い違いなどがあった場合に、これを大きな衝突にしないように、どこかで早めに妥協するなどの対応は出来るが、それ以上に相手の話を聞き、良く理解するというレベルにはまだ達していない。感情移入型の聞き方はちょっと努力してみようと思う。
目標設定と自己管理は結構やってきた!
目的を持って始めるというところで、自分の葬儀の光景を想像する場面がある。私は、このような形ではないが、やはり自分がどうなりたいか、ということをずっと考え続けている。「相互依存」という言葉で表現できるかどうかは別にして、人間である以上、一人では生きていけない、そして既に数えられない位多くの人に助けられてきている、ということを頭において、今自分が考えていることは、「自分が死ぬ寸前に、配偶者であれ、子供であれ、友人であれ、会社の同僚であれ、医者であれ、或いはたまたまそこにいた人であれ、たった一人でよいので、おまえは生きていて良かったんだ、と言ってくれる人がいれば、自分は幸せではないか」ということだ。つまり人間として生きた以上は、せめて一人の人間の役に立ちたい、ということだ。
自己管理、私の手帳は結構有名で、若いころは「手帳の本」という雑誌の特集でも取り上げられた。自分のすべての行動を、デイリーに記載し、更に先にあるイベントに対して、スケジュールを作って、その前のいくつかのタイミングで工程管理をしたり、ということで第三世代のレベルには十分に達している。また、一方で、まさに緊急でないが重要な課題、つまり第二領域についても、週末に整理し考える時間を持つようにしている。だが、そのような過程はあくまで自己流であり、これを整理して示している記載は、参考になる。
また、仕事においては、どうしても使い走りのディリゲーションにならざるを得ない場面が多いな、と反省している。顧客もいることを考えると、どうしてもその場の効率性を求めざるを得ないし、ましてやいつおかしくなるか分からない業況であれば、正直言って余裕がないのが現実だが、Win WinでなければNo Dealというのは、なるほどと感じた。ちょっと今度使ってみたい。
最後に、刀を研ぐところ。精神面もさることながら、肉体面で必要性を感じながら、何もしていないわが身にはつらい指摘だ。ただ、先に述べた自分の目標、「だれかのために役に立ちたい」のために、身体が健康であることはやはり極めて重要なのも事実。ちょっと、夕方の散歩などを積極的にするように改めてみようか、と考えている。