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Web2.0再考・・・・・・「世界」と、それを取り囲む「世間」

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Web2.0を巡る議論の中で、あまり指摘されていなかった点を考察してみたいと思います。

まず、このことを考えるようになったきっかけになったコラムを紹介します。ちょっと古いのですが、『週刊文春』2006年3月30日号に掲載された堀井憲一郎の「ホリイのずんずん調査」より。

「文章のスタイルは『使わない言葉』で決まる。いい文章は、いい言葉が詰まっているわけではなく、悪い言葉がきれいに排除されてるだけなんですね。これは読んでいるほうにはわかりにくい。それぞれの文章が『どういう言葉を避けて書いているか』というのは、とても注意深く見てないとわかんないですね」

まさにその通り。で、このコラムは、この後、堀井氏が出演していた日本テレビの自社宣伝番組『TVおじゃまんぼう』が、「ぜひ、ご覧ください」「おもしろいですよ」というセリフを使わないことになっていた、なぜなら、「そのほうが見ている人の視聴意欲をかき立てる」(同コラムより)から、といったことなどを紹介しています。

ところで、このコラムの引用部分の指摘というのは、創作全般に通ずるものであると言えます。つまり、創作者(クリエイター)というのは、何を書き(描き)何を書かない(描かない)かを決めることで、自分の「世界」を構築するわけです。

しかし、ブログなどで文章を発表すると、書き手が、意図的に(あるいは無意識に)排除している言葉を、コメント欄に書かれてしまって、その結果「世界」が壊れたりしてしまいます。たとえば私が「節約は賢いことだ」というコンセプト(世界観)で、ブログを開設しても、コメント欄に「貧乏くさい」とか、書かれてしまうと、その世界は一発で崩壊してしまいます。

インターネットの掲示板や、ブログのコメント欄にあふれるコメントというのは、言ってみれば「世間の声」であって、必ずしも「世界」を構築する要素にはなりえないし、時には「世界」を壊す方向に働いたりします。

あるいは、ニコニコ動画のコメントというのも、流れている動画の提示する「世界」に、そぐわないコメントがついていたりしますが、「世界」を提示する側は、動画そのものを削除しない限り、それらを排除することはできません。

Web2.0と呼ばれる状況の下では、クリエイターによって提示される「世界」と、それを取り囲む「世間」というものが、きわめて容易に見えるようになってきました。たぶん、これがWeb2.0のもたらした最大の変化ではないかと思います。

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