自己紹介と起業に至るまで
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はじめまして。株式会社リヴァという、うつの方への社会復帰支援をしている会社をやっています。うつになってしまっても、それによって自分らしく生きるきっかけになったとしたら「それはうつになってよかったじゃん」と結果として言えるのではないでしょうか。そんな支援をしていきたいと思ってます。今回は、記念すべき第1回目ということで、まずは自分の紹介と、起業に至ったプロセスについて書いてみたいと思います。
出身は仙台で、学生時代までずっと仙台で過ごしてきました。新卒で入社した会社では、大手証券会社の大規模なシステム構築に関わっておりましたが、なかなか楽しみを持てずにおりました。「自分はいったい何がしたいのだろう」と苦悩する日々でした。結局、具体的に何をしたいのかという疑問に対しての答えを見つけられませんでしたが、自分がどうありたいかということだけは見えてきました。「もっと、直接的にお客様と課題解決のプロセスや結果を共有したい」「自分の責任で裁量をもってやりたい」「5年後、10年後の自分がどうなるかわからないチャレンジングな環境にいたい」など、いくつかこうありたいということだけは見えてきました。学生の時に考えておくべきことなのかもしれませんが、どちらかというと不真面目な学生だったので、働いてみてようやく気付いたのです。
そんな中、大学の研究室の先輩から「障がい者雇用支援の会社の立上げに参加しているから一緒にやらないか?」と声がかかりました。入社して2年が経った頃です。
しかしいざ、そんな声がかかると、大企業を辞めることへの不安や、ベンチャー企業へ行くことで大学院まで行かせてくれた親(超保守的)に対しての罪悪感みたいなものもあり、実際に...となると迷うものです。まして、これまでと全く業界が違いますし、福祉や障がい者のことはこれまで意識したこともあまりありませんでした。でも、その先輩と1晩中飲みながら語る中で、「自分がありたい環境はこっちのほうが可能性が高いのではないか」と思えるようになりました。であれば迷う必要はないと思い、その3日後には両親に伝えました。もちろん両親は大反対で、翌週には仙台から東京まで説得にきたくらいです。
その後入社した福祉系ベンチャー企業では、わたしが8番目に入社した社員でした。そこでは、何もかもを自分達で全てゼロから作っていくことの楽しさや、世の中に新しいサービスを売込む難しさが新鮮で夢中で働いていたと思います。というよりも、楽しくて働いているという感覚ではなかったです。この会社では沢山のエピソードがあるのですが書き出すときりがないので、ブログを進める中でご紹介も出来ればと思います。
企業に障がい者雇用支援の営業に行くと、どの企業もうつになってしまった社員の対応に困っていることが分かりました。そしてうつになった方は、基本的には障がい者手帳をとらないこと、さらに休職後に復職しても多くの方が復職に失敗して、もう一度休職するか退職してしまうことがわかりました。
障がい手帳があれば、社会的な支援の仕組みはあります。しかし、手帳を持っていなくても、支援が出来る仕組みが必要だと考えるようになりました。またこのころ、自分の仲の良いスタッフもうつで会社出社できなくなり、近くにいながら何もできないことへの無力さも感じておりました。
「うつの方を生まない組織は作れないものか」とも考えるようになり、自分で組織をつくってみたいという想いも強くなっていきます。そんな中、「一緒にやろう」「出資してもいい」という方が現れ、一気に起業へ加速することになります。事業スキームを色々な方に話していくうちにどんどんブラッシュアップされ、また同時にこの仕組みは世の中に広げるべきだと、より強く思うようになっていきました。
「自分らしく生きるために自分を見直す機会は、流れが速い現代においてあまりにも少ないのではないか?」「きっかけがうつであっても、そんな時間を作れないだろうか?」そんなふうにも考えるようになりました。
そして2011年2月に会社を退職し、その後の震災の影響もありましたが、2011年6月より高田馬場にて、うつの方の社会復帰支援をしております。
次回以降は、うつに関することを当面は書いていきます。どうぞよろしくお願いいたします。
出身は仙台で、学生時代までずっと仙台で過ごしてきました。新卒で入社した会社では、大手証券会社の大規模なシステム構築に関わっておりましたが、なかなか楽しみを持てずにおりました。「自分はいったい何がしたいのだろう」と苦悩する日々でした。結局、具体的に何をしたいのかという疑問に対しての答えを見つけられませんでしたが、自分がどうありたいかということだけは見えてきました。「もっと、直接的にお客様と課題解決のプロセスや結果を共有したい」「自分の責任で裁量をもってやりたい」「5年後、10年後の自分がどうなるかわからないチャレンジングな環境にいたい」など、いくつかこうありたいということだけは見えてきました。学生の時に考えておくべきことなのかもしれませんが、どちらかというと不真面目な学生だったので、働いてみてようやく気付いたのです。
そんな中、大学の研究室の先輩から「障がい者雇用支援の会社の立上げに参加しているから一緒にやらないか?」と声がかかりました。入社して2年が経った頃です。
しかしいざ、そんな声がかかると、大企業を辞めることへの不安や、ベンチャー企業へ行くことで大学院まで行かせてくれた親(超保守的)に対しての罪悪感みたいなものもあり、実際に...となると迷うものです。まして、これまでと全く業界が違いますし、福祉や障がい者のことはこれまで意識したこともあまりありませんでした。でも、その先輩と1晩中飲みながら語る中で、「自分がありたい環境はこっちのほうが可能性が高いのではないか」と思えるようになりました。であれば迷う必要はないと思い、その3日後には両親に伝えました。もちろん両親は大反対で、翌週には仙台から東京まで説得にきたくらいです。
その後入社した福祉系ベンチャー企業では、わたしが8番目に入社した社員でした。そこでは、何もかもを自分達で全てゼロから作っていくことの楽しさや、世の中に新しいサービスを売込む難しさが新鮮で夢中で働いていたと思います。というよりも、楽しくて働いているという感覚ではなかったです。この会社では沢山のエピソードがあるのですが書き出すときりがないので、ブログを進める中でご紹介も出来ればと思います。
企業に障がい者雇用支援の営業に行くと、どの企業もうつになってしまった社員の対応に困っていることが分かりました。そしてうつになった方は、基本的には障がい者手帳をとらないこと、さらに休職後に復職しても多くの方が復職に失敗して、もう一度休職するか退職してしまうことがわかりました。
障がい手帳があれば、社会的な支援の仕組みはあります。しかし、手帳を持っていなくても、支援が出来る仕組みが必要だと考えるようになりました。またこのころ、自分の仲の良いスタッフもうつで会社出社できなくなり、近くにいながら何もできないことへの無力さも感じておりました。
「うつの方を生まない組織は作れないものか」とも考えるようになり、自分で組織をつくってみたいという想いも強くなっていきます。そんな中、「一緒にやろう」「出資してもいい」という方が現れ、一気に起業へ加速することになります。事業スキームを色々な方に話していくうちにどんどんブラッシュアップされ、また同時にこの仕組みは世の中に広げるべきだと、より強く思うようになっていきました。
「自分らしく生きるために自分を見直す機会は、流れが速い現代においてあまりにも少ないのではないか?」「きっかけがうつであっても、そんな時間を作れないだろうか?」そんなふうにも考えるようになりました。
そして2011年2月に会社を退職し、その後の震災の影響もありましたが、2011年6月より高田馬場にて、うつの方の社会復帰支援をしております。
次回以降は、うつに関することを当面は書いていきます。どうぞよろしくお願いいたします。
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